海壁

第二十章

本部行き

挿絵:本部行き

ヒューゴ・ランベールは、小屋の裏の柱に、縄で繋がれていた。

食事は、日に二度。一が運んだ。ヒューゴは、毎回、礼を言って食べた。丁寧に。変わった者ではないのに、変わった者のように丁寧だった。

ロズリンが、施療所の台帳を持って、その前に座った。

ドラグが、少し後ろに立った。何も言わなかった。ロズリンの帳面の横にいる、という顔で。

『本部行き、という欄について、教えてください』

「お教えできることは、多くありません」

ヒューゴは、縄のまま、背筋を伸ばした。

「本部行きの者は、本部が名前を指定してきます。年に、一人か二人。その名前の者が熱を出したら、共和国ではなく、本部へ送る。それだけです」

『なぜ、その人なのですか』

「存じません。訊いたこともありません。訊けば答える機械だそうですが、訊く理由が、私にはなかった」

ロズリンは、帳面に書いた。

本部行きは、本部が名を指定する。年に一人か二人。

『三四二年の夏。リーネ・ケイン』

「覚えております。海壁の街の施療所から、特別の荷車で送りました。本部の指定は、珍しかったので」

『何か、言っていましたか。その人は』

ヒューゴは、少し考えた。

「瓶を飲む前に、一つだけ。…息子に、海に近づくなと伝えてほしい、と」

ロズリンの筆が、止まった。

少し離れた火のそばで、マーロウが、豆の椀を持ったまま、動かなくなった。

「伝えませんでした。伝える役目は、私にはございませんので」


ロズリンは、しばらく、筆を持ったまま、何も書かなかった。

それから、書いた。

字は、崩れていなかった。

リーネ・ケイン、瓶の前に。息子に、海に近づくなと。

ロズリンは、帳面を閉じずに、火のほうを見た。

マーロウは、椀を置いていた。

手のひらを、見ていた。海に何百回も入れて、何千も粒を作ってきた手だった。

ミラベルが、隣で、その手を黙って取った。


『もう一つ、伺います』

ロズリンが、台帳の頁をめくった。

『北に集まっている十二隻には、何が乗っていますか』

ヒューゴは、少しだけ口の端を上げた。

「兵です。施療所の兵」

『施療所の兵』

「変わった者の中から、体の大きな者を選んで、兵にしたものです。言われたことを、言われたとおりにする。怖がれと言われなければ、怖がらない。止まれと言われなければ、止まらない」

ドラグの拳が、鳴った。

「兵としては、申し分ありません。帝国の兵は、帝国の民を撃つのを嫌がります。施療所の兵は、嫌がりません」

『何人ですか』

「一隻に、五十。十二隻なら、六百」

ロズリンは、息を呑んだ。

ヒューゴは、穏やかに続けた。

「その六百人も、この台帳のどこかに載っております。私の施療所から出た者も、いるでしょう」


その夜、ティルダが、ロズリンのところへ来た。

帳面を抱えて、背筋を伸ばして。

『書記殿。その台帳を、拝見してもよろしゅうございますか』

「…何を、お探しですか」

『私の名前を』

ロズリンは、ティルダの顔を見た。

平らな顔だった。いつもと、同じだった。

ロズリンは、台帳を差し出した。

ティルダは、三三〇年の頁を開いた。指で、一行ずつ、なぞった。

東部の施療所の台帳だった。三三〇年は、百二十行あった。

百四行目で、ティルダの指が止まった。

帝国暦三三〇年、春。ティルダ・ノーム。港の街。共和国行き。

その横の、家族の欄に、小さな字で。

娘、一名。在宅。

ティルダは、その行を、長いこと見ていた。

『…名前は、書いてございませんね』

「ありません。家族の欄には、人数しか」

『さようでございますか』

ティルダは、台帳を閉じて、ロズリンに返した。

それから、自分の帳面を開いて、何かを書いた。

ロズリンは、見ないようにした。

見ないようにしたが、見えてしまった。

娘、一名。帝国暦三三〇年春、在宅。名前、不明。

その下に、もう一行。

探す手立て、不明。

ロズリンは、帳面を持つ手に、力を入れた。

「…港の街に、施療所の近くに、帳面をつける人がいるかもしれません」

ティルダが、顔を上げた。

「私のような者が。どの街にも、一人くらいはいます。十九年前の春に、誰の家に誰が残されたか、書いた人が」

ティルダは、ロズリンの顔を見ていた。

それから、自分の帳面の、探す手立て、の行に、線を一本引いた。

消したのではなかった。線の横に、小さく書き足した。

書記に、訊く。

『ありがとうございます』

ティルダは、頭を下げた。

それから、少しだけ、首を傾げた。

『書記殿。施療所の兵には、名前がございますか』

「…台帳には、あると思います。瓶を飲む前の名前が」

『では、一つ、お伝えしておきます』

ティルダは、平らな声で言った。

『変わった者は、名前を呼ばれると、一拍、止まります。自分の名前を、自分でない者が呼ぶのを、後ろから聞いているような心地がして。…私も、そうでございました』

ロズリンは、施療所の台帳を見下ろした。

何百行も、何千行も、名前が並んでいた。

第二十章 了