第二十六章
硝子の箱

瓶が落ちて、しばらく、何も起きなかった。
十数えた。百数えた。
それから、穴の口が、風を吸いはじめた。
ごう、と。前と同じ音だった。塔が倒れた朝に聞いた音。
ロズリンが、帳面を胸に抱えた。ドラグが、その横に立った。
「…開いたな」
ケイルが、穴を見下ろして言った。
ニコは、地面に手をついたまま、目を閉じていた。
『トンが、行った。箱のとこ』
夜の野は、真っ暗だった。月もなかった。トンがそう選んだ。光が一つも入らない夜を。
都の三重の壁の灯りだけが、遠くに、小さく見えていた。
一時間たった。
穴の風は、吸い続けていた。
二時間たった。
ミラベルが、マーロウの横で、剣を膝に置いて座っていた。ときどき、マーロウの手首の赤い紐に、指で触れた。
『…遅いね』
「千九百五十メートルだ」
『トンなら、すぐでしょ』
「箱を持ってる。割らないように上がってる」
ミラベルは、黙った。
黙って、マーロウの肩に頭を乗せた。
三時間目に、ニコが、顔を上げた。
『…来る』
穴の口から、黒い水が、そっと溢れた。
噴き上がらなかった。前の朝のようには。
溢れて、穴の縁を濡らして、そこから、ゆっくり、盛り上がった。水が、形になった。腕になった。肩になった。
トンだった。
前より、ずっと小さかった。人の背の三倍ほど。黒い水の体の奥で、青い光が、弱く瞬いていた。
その両腕に、細長い箱を抱えていた。
硝子の箱だった。
人が一人、横になれるほどの長さ。中は、黒い水で満たされていた。
トンは、身を屈めて、箱を、乾いた土の上に、そっと置いた。
それから、ニコのほうへ、水の手を差し出した。
ニコが、二本目の瓶を、その手に載せた。
『閉めてきて。…ありがとう、トン』
トンの手が、瓶を包んだ。黒い水の奥に、瓶が、ガラスの形のまま浮かんだ。
トンは、崩れて、水に戻って、穴の中へ流れ込んでいった。
しばらくして、足の下で、音がした。
トン。
戸を一つ、閉めるような音。
穴の風が、止まった。
全員が、箱のまわりに集まった。
ロズリンが、灯りを一つだけ点けて、箱の上にかざした。
黒い水の中に、女が一人、横たわっていた。
痩せた女だった。長い髪が、水の中で、ゆっくり揺れていた。薄い布の服。白い腕。胸の上で、両手を組んでいた。
顔を見て、マーロウは、息を止めた。
知っている顔だった。
正確には、知っている顔に、似ていた。
細い眉。少し上を向いた鼻。笑っていないときの、唇の形。
母さんだった。
母さんより、少し若かった。母さんより、少し痩せていた。それでも、母さんと同じ顔の線を持っていた。
「…なんで」
声が、かすれた。
ミラベルが、マーロウの顔を見て、それから、箱の中の顔を見た。
『…坊や。この人』
「分からん」
マーロウは、箱の縁に手をついた。
そのとき、箱の中の女の瞼が、動いた。
開いた。
黒い水の中で、灰色の目が、灯りを見た。それから、灯りの向こうの、マーロウの顔を見た。
女の手が、ゆっくり動いて、硝子の内側に、指をついた。
ニコが、叫んだ。
『開けてって! 言ってる!』
「下がれ。人間は、全員、下がれ」
ドラグが言った。
「深い水だ。おれがやる」
ドラグは、オークだった。海の水でも、深い水でも、変わらない。
ドラグは、箱の縁に両手をかけて、硝子の蓋を、力で引き剥がした。ひびが走った。蓋が、割れずに、外れた。
黒い水が、箱から溢れて、土に吸い込まれていった。人間たちは、濡れた土の手前まで下がっていた。マーロウも、下がった。手に血が出ていないのを、一度だけ確かめて。
ドラグが、女の体を、両腕で抱え上げた。
女は、水を吐いた。何度も。咳き込んで、喘いで、ドラグの腕の中で、体を震わせた。
それから、息をした。
一度。二度。
三百年ぶりの、空気だった。
女の目が、ドラグの顔を見た。緑の肌を。唇の外に出た二本の牙を。
女の口の端が、少しだけ、動いた。
『…ちゃんと、生きてる』
かすれた、古い言い回しの声だった。
『作り直した子が、ちゃんと、生きてる』
ドラグの腕が、止まった。
女の目が、ドラグの肩越しに、マーロウを見た。
長いこと、見ていた。
『あなた。…ケインの、子ね』
マーロウは、動けなかった。
女は、震える手を、少しだけ持ち上げた。
『私は、エリス。エリス・ケイン。…あなたの、ずっと上の、おばあさん』
第二十六章 了