海壁

第九章

いつの重さ

挿絵:いつの重さ

ティルダは、帳面を開いて、しばらく何も書かなかった。

それから、平らな声で言った。

『鐘鳴きは、去りました。指示書どおり、東から収穫を始めます』

兵たちが、槍を拾い直した。

ウィラが、父親の杭の前に立った。両腕を広げて。

「どかない」

『どいてくださいませ』

「どかない。父さんを入れるなら、あたしも入れて」

『指示書に、ございません』

ドラグが、ウィラの横に立った。ミラベルが、反対側に立った。剣を持ったまま、黒い液をまだ肩からにじませて。

兵たちの足が、止まった。今しがた、あの大きいのを斬った女だった。

ティルダは、兵を見て、ウィラを見て、ミラベルを見た。

何も、変わらない顔で。


「監督官」

ロズリンが、言った。

いつもの、書記の声だった。震えていなかった。

ロズリンは、ティルダの帳面を指さした。

「その頁を、見せていただけますか」

『なぜでございましょう』

「重さが基準を超えた者から収穫する、と、おっしゃいました」

『申しました』

「重さは、いつ量ったものですか」

ティルダは、帳面をめくった。

『前回の収穫の日でございます。三か月前』

ロズリンは、息を一つ吸った。

「では、今日の重さではありません」

ティルダの手が、止まった。

「私は、この八日で、千九百の杭を写しました。札には、入った日の重さが書いてあります。それとは別に、あなたの帳面の重さがある。三か月前の重さです」

ロズリンは、自分の帳面を開いた。

「この畑は、一さんの輪ができてから、明るくなりました。東の列は、この五日で、倍になりました。草の汁の量が変われば、寝ている人の重さも変わります」

ロズリンは、ティルダの目を見た。

「指示書には、重さが基準を超えた者、と書いてあるはずです。三か月前に超えていた者、とは書いていないはずです」

ティルダは、指示書の紙を、帳面の間から抜き出した。

読んだ。

一行ずつ、指でなぞって、読んだ。

『…重さが基準を超えた者から、順に』

ティルダの平らな声が、一字ずつ、その文を読み上げた。

『いつの重さとは、書いてございません』

「書いていないことは、なさらないのでしたね」

『はい』

「では、今日の重さを量らない限り、誰が基準を超えているかは、分かりません」

長い沈黙があった。

ティルダは、指示書を、帳面に戻した。

『…量り直します』

兵たちが、顔を見合わせた。

「二万人を量り直すには、何日かかる」とドラグが言った。

『三十人で、一日に八百。…二十五日でございます』

ティルダは、帳面を閉じた。

『指示書には、収穫の期限も、ございません』


兵たちが、秤を荷車から下ろしはじめた。北の端から、一人ずつ。

ウィラは、腕を広げたまま、まだ父親の杭の前に立っていた。

立ったまま、泣いていた。

マーロウは、その後ろから、ウィラの頭に手を置いた。

十度目だった。

『…二十五日』

「ああ」

『二十五日あったら、父さん、起きる?』

「分からん。でも、二十五日ある」

ウィラは、腕を下ろした。

振り返って、マーロウの胸に、額をぶつけた。

しばらく、そのまま動かなかった。

それから、顔を上げずに言った。

『…ロズリンさんに、お礼言ってくる』

「行ってこい」

ウィラは、走っていった。帳面を抱えたまま、まだ少し震えているロズリンのところへ。

抱きついた。ロズリンの眼鏡がずれた。


夕方、ティルダが一人で、マーロウのところへ来た。

帳面を抱えて、背筋をまっすぐにして。

『一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか』

「なんだ」

『あの老人は、なぜ、鐘鳴きに手を当てたのでございましょう。指示を受けていたのでございますか』

マーロウは、ティルダの顔を見た。

平らな顔だった。ただ、訊いてきたのは、この女のほうからだった。変わった者は、言われたことしかしない。訊けとは、誰も言っていない。

「誰にも言われてない」

『では、なぜ』

「弟が、危なかったからだ。…たぶんな」

ティルダは、しばらく黙っていた。

それから、帳面を開いて、何かを書いた。

マーロウからは、見えなかった。

ティルダは、帳面を閉じて、頭を下げた。

『ありがとうございました』

去っていく背中を見ながら、マーロウは思った。

変わった者は、自分から問いを持たない。

あの女は、今、一つ持った。

第九章 了