海壁

第二十四章

道の先

挿絵:道の先

その夜、火のまわりで、誰も眠らなかった。

提督の硝子の板は、机代わりの木箱の上に置かれたままだった。白い字は、もう消えていた。消えても、全員が覚えていた。

行かないでください。

「…本部が、頼みごとをした」

ドラグが、低く言った。

「三百四十年で、初めて、だそうだ」

ロズリンは、帳面を膝に広げていた。ずっと、何かを書いていた。

書き終えて、顔を上げた。

『書き出してみました。本部が、これまでに、あなたにしたことを』

ロズリンは、帳面を火のほうへ向けた。

読み上げた。一行ずつ。

『一。船が落ちる前に、シビルさんは買い値を出していました。落ちることを、誰かが知っていた』

『二。あなたが本部の部屋で出した三つの条件を、本部は一つも値切らずに呑みました』

『三。荷車に積んだ海の水の筒は、百二十本。街まで往復しても、五十八日ぶん余りました。南の共和国まで行って帰る日数と、同じです』

『四。一さんが地上に出て二日で、共和国の将軍が一さんをさらいに来ました。誰かが、知らせていた』

『五。海から来たあいつが南へ行ったとき、本部は、あなたの約束を、自分から破棄しました。どこへ行ってもいい、と』

『六。議会に、蓋を血で開ける方法を教えたのは、本部です』

ロズリンは、帳面を閉じた。

『全部、あなたを、蓋の前へ運んでいます』

火が、ぱちりと鳴った。


誰も、すぐには口をきかなかった。

マーロウは、自分の手のひらを見ていた。

一年前、市場の外れで、壁の向こうに落ちた船を見た。剥いだ灰色のコート。浴びた海の水。十一日。籠。坑の底。孤独の大地。共和国。海壁の街。都の塔。

自分で決めて、歩いてきたつもりだった。

「…おれは、運ばれてたのか」

『全部ではありません』

ロズリンが、すぐに言った。

『本部は、嘘をつきません。道を作っただけです。その道を歩くと決めたのは、あなたです。…でも、道は、ずっと蓋へ向いていました』

提督が、腕を組んで、それが今になって行くなと言う、と呟いた。

「蓋の下に、本部が計算に入れてなかったものがいる」とケイルが言った。

「本部は、蓋を開けたかった。開けて、中の海を粒にしたかった。それが、開ける前に、別のものが起きた」

ドラグが、兄を見て、起きたら本部が困るものか、と低く言った。

ニコが、マーロウの袖を引いた。

『トン、言ってた。その人、トンが生まれる前から、あそこにいたって。ずっと、寝てたって。…誰かを待ってたって』

マーロウは、ニコの顔を見た。

それから、火のまわりを見回した。

「行く」


行くのは、マーロウと、ミラベルと、ニコ。ロズリンと、ドラグと、ケイル。提督の船で、都まで一日半。

畑には、一と、ミラと、ティルダ。ヨルンとユラン。ラーナと十一の翼が、鐘鳴きの見張りに残る。

ウィラは、最後まで、何も言わなかった。

話が決まって、火が小さくなってから、マーロウのところへ来た。

『…あたし、残る』

「分かってる」

『父さんを、置いていけない』

「置いていくな」

ウィラは、唇を噛んだ。

『マーロウについてかないの、初めてだね』

マーロウは、少し考えた。

三年半。市場の荷車の横に、勝手についてきた日から。東の哨所にも、坑の上にも、南の畑にも、共和国の都にも。ウィラは、いつも、訊く前に荷車に乗っていた。

「…初めてだな」

『さみしい?』

「さみしくない」

『うそ』

「うそだ」

ウィラは、笑った。泣きそうな顔で。

マーロウは、ウィラの頭に手を置いた。十一度目だった。

「親父を見てろ。一も見てろ。ミラも。…おまえが見てれば、おれは安心して行ける」

『…うん』

「帰ってきたら、全部話す。ロズリンが書いたのを読むより、先に」

『約束ね』

「約束だ」


一は、小屋の前で、マーロウを待っていた。

痩せた腕を組んで、夜の畑を見ていた。

『行くのか』

「行く」

『本部に、頼まれたのにか』

「頼まれたから行く。三百四十年、頼んだことのないやつが頼むのは、よっぽどのことだ」

一は、声を出さずに笑った。

『生意気な弟だ』

一は、マーロウの胸を、骨ばった拳で、軽く叩いた。

『畑は、おれが見る。鐘のやつが来たら、おれの手がある。…行ってこい』

マーロウは、一の顔を見た。

同じ顔。二十年ぶん、年を取った顔。

「…すぐ戻る」

『すぐでなくていい。待つのは、慣れとる』

一は、背中を向けて、自分の輪のほうへ歩いていった。途中で、振り向かずに、片手を上げた。

ミラが、その背中を、ずっと見ていた。

第二十四章 了