海壁

第三十章

光の筋

挿絵:光の筋

鐘の音は、夜更けに来た。

一つではなかった。十でもなかった。畑の北の縁から、東の縁まで、水の中で鐘を鳴らしたような音が、切れ目なく続いた。

ヨルンが、丘の上で、数えるのをやめた。

「…数えられん。二十、三十…もっといる」

ユランの声が、かすれていた。

『国境じゅうの鐘鳴きが、来てる』

畑は、明るかった。

これまででいちばん、明るかった。一の輪。東の輪。目の開いた百八十六人。口をきく者たち。二百八十七人の、名前を取り戻した兵たちが、畑の端で起きていた。

明るすぎる区画から収穫して、暗くせよ。指示書には、そう書いてあった。

ティルダは、帳面を抱えて、畑の縁に立っていた。

収穫は、いたしません、と、誰に言うでもなく、平らな声で言った。


ラーナが、十一の翼と一緒に、空へ上がった。

翼の者たちは、粒で動いていない。鐘鳴きの穴に吸われない。空から、殻の背に石を落とし、脚に体当たりをした。

それでも、殻は割れなかった。剣がなかった。ミラベルが、いなかった。

鐘鳴きの群れは、止まらなかった。一つずつ、畑の縁を越えてきた。穴が開くたびに、草の光が吸われた。寝ている者たちの寝息が、乱れた。

ウィラは、父親の杭の前に立っていた。ハロルドが、その横で、杖を握っていた。

「…父さん、下がって」

『下がらん』

「下がってよ」

『四年、おまえの前に立てなかった。今は、立てる』


ミラは、一の横にいた。

一は、自分の輪の真ん中に立って、畑を見渡していた。

鐘鳴きの群れの向きを、見ていた。

どの鐘鳴きも、穴を、同じほうへ向けていた。

一のほうへ。

一の輪の、いちばん明るい真ん中へ。

「…おれか」

一は、呟いた。

「おれの血の匂いが、いちばん濃いのか」

一は、自分の胸の、管の跡に触れた。

それから、ミラを見下ろした。

「ミラ」

『なに』

「おまえは、ここにいろ」

『いや。見てる、仕事』

一は、少しだけ笑った。マーロウと、同じ顔で。

「そうだったな」

一は、手のひらを、歯で噛み切った。

血が出た。

その手を、光る草の上に、押しつけながら、走りだした。

畑の外へ。北の、赤い土の荒れ地のほうへ。

一の手が触れた草が、ひときわ強く光った。光の筋が、畑の縁から荒れ地へ、一本、伸びていった。

鐘鳴きの穴が、いっせいに、その光の筋を追った。

群れが、向きを変えた。畑から離れて、一の後ろへ。

ミラは、走った。腕のない体で、一の後ろを。


荒れ地の、岩のあいだで、一は止まった。

振り向いた。

鐘鳴きの群れが、一の前に、半円に並んだ。

一は、いちばん近い一頭の脚の下へ、滑り込んだ。殻の継ぎ目の、ぬめった肉に、血の手を押し当てた。

音がした。濡れた布を、一気に絞る音。

脚が、崩れた。

隣の継ぎ目。また、音。

また。

また。

九年、毎朝、水に手を入れてきた手だった。速かった。迷いがなかった。

一頭が、倒れた。

二頭目の脚の下に、転がり込んだ。

その背中に、三頭目の脚が、振り下ろされた。

一の体が、岩に叩きつけられた。

ミラが、叫んだ。

声になっていなかった。

ミラは、一の前に跳び出した。三頭目の穴が、ミラのほうを向いた。ミラの肩から、黒い液が、糸のように引かれた。

一が、起き上がった。

起き上がって、ミラの体を、腕で後ろへ突き飛ばした。

「下がれ。…おまえは、吸われる」

『一…』

「見てろ」

一は、ミラのほうを見ずに言った。

「見てるのが、仕事だろう。…最後まで、見とれ」

一は、三頭目の脚の下へ、もう一度、滑り込んだ。


ラーナたちが荒れ地に着いたのは、東の空が白くなってからだった。

岩のあいだに、殻が、七つ倒れていた。脚が崩れ、光が消え、中から粒がこぼれていた。

残りの鐘鳴きは、北へ去っていた。

七つの殻の真ん中に、白い髪の男が、仰向けに倒れていた。

その横に、腕のない女が、座っていた。

ずっと、座っていた。

ミラは、一の顔を、見ていた。一度も、目を逸らさずに。

一の手のひらは、開いていた。血は、もう止まっていた。まわりの土に、粒が、いくつも落ちていた。印のない粒。一の手が作った粒。

一の目は、半分だけ開いて、白くなりはじめた空を見ていた。

唇が、まだ、少しだけ動いた。

ミラは、顔を近づけた。

「…待つのは、慣れとった」

かすれた、息のような声だった。

「待たせるのは、慣れんかったな。…あいつに、そう言え」

ミラは、頷いた。何度も。

一の唇が、もう一度動いた。

「あいつの顔、見とってやれ。…おれと、同じ顔だ」

それが、最後だった。

ミラは、一の顔を見ていた。

東の空から、朝の光が、岩のあいだに差しこんできた。

一の顔に当たった。

一は、もう、眩しがらなかった。

ラーナが、翼を畳んで、ミラの横に降りた。

何も言わなかった。

言わずに、灰白色の翼を広げて、ミラと、一の体を、上から覆った。

第三十章 了