第二十九章
一番の設計図

都の南の作業場に、エリスは、担架で運ばれていった。
トビアス・レンクが、瓦礫の片づいた床に、台を一つ用意して待っていた。刃の腕をつないできた台だった。
エリスは、担架の上から、その台を見て、少しだけ笑った。
『懐かしい形。…三百年たっても、同じ台を作るのね、人は』
トビアスは、禿げた頭を撫でた。
「あんたが、最初の設計を書いたって人か」
『書いたのは、十二人。私は、そのうちの、燃やすところの係』
エリスは、ミラベルを見た。
ミラベルは、台の横に立っていた。剣を背中から外して、マーロウに預けていた。手が、少し震えていた。
『怖い?』
「…怖い」
ミラベルは、正直に言った。
「二百十一年、ずっと、この体で来たの。粒を食べて、燃やして。食べないと、止まる。…それが、あたしだった」
エリスは、頷いた。
『変わるのは、燃やすところだけ。あなたは、あなたのまま。名前も、記憶も、指も』
ミラベルは、マーロウを見た。
マーロウは、剣を持ったまま、頷いた。
ミラベルは、台に横になった。
作業は、日が傾くまで続いた。
エリスが、担架の上から、一つずつ言った。トビアスと弟子たちが、そのとおりに手を動かした。ミラベルの胸の奥、粒が燃える小さな場所。錆びない金属でできた、握りこぶしほどの炉。その内側の、線の並びを、組み替えていく。
エリスの声は、何度も途切れた。途切れるたびに、ロズリンが、エリスの口もとに水を運んだ。ロズリンは、帳面をつけなかった。つけている暇がなかった。
シビルが、作業場の戸口に立っていた。ノエラが、ピオとリラを両脇に座らせて、黙って見ていた。ブリンが、湯を沸かし続けていた。
最後に、エリスが言った。
『…血を』
マーロウは、剣を置いた。
左の手のひらを、鉤で切った。
トビアスが、開いた炉の真ん中に、小さな受け口を示した。
マーロウは、そこに、血を一滴だけ落とした。
何も、起きなかった。
十数えた。
ミラベルの胸の奥で、小さな音がした。
ことり、と。
小さな歯車が、一つ、噛み合ったような音だった。
ミラベルの目が、開いた。
茶色の目も、金属の目も。
「…あれ」
ミラベルは、台の上で、自分の胸に手を当てた。
「あったかい」
エリスが、担架の上で、目を細めた。
『燃やすものが、変わったの。他人の粒じゃなくて、あなたの体の中の水を、その血が、結び目に変える。それが、燃料になる。…一日に一滴。それで、足りる』
ミラベルは、起き上がった。
左手を、開いて、閉じた。四本の指が、まっすぐに動いた。
帯の小袋を、見下ろした。粒の袋。作られた日から、ずっと持ち歩いてきた袋。
「…お腹、すいてない」
ミラベルの声が、震えた。
「粒、いらないの? もう、いらないの?」
『いらないわ』
エリスが、言った。
『街から離れても。粒のない土地でも。…その人のそばにいれば、あなたは、どこでも動ける』
ミラベルは、台から飛び降りた。
マーロウの前に立った。
「…どうだ」とマーロウが訊いた。
何か言おうとして、言えなくて、それから、両手で、マーロウの顔を挟んだ。
『…終わらない』
泣きながら、笑っていた。
『あたし、終わらない。坊やがいれば、ずっと、終わらない』
マーロウは、挟まれた顔のまま、ミラベルの額に、自分の額をつけた。
「…毎朝、一滴だな」
『毎朝、ちょうだい』
「毎朝、やる」
作業場の戸口で、ノエラが、シビルの前脚に額を押しつけていた。ブリンが、鍋を叩いた。ピオとリラが、同じ角度で、何度も首を縦に振った。
トビアスが、禿げた頭を両手で覆って、しゃがみこんでいた。
刃を作った台で、初めて、人を壊さずに済んだ、とトビアスは呟いた。
その夜、エリスは、作業場の隅の寝床で、マーロウを呼んだ。
声は、もう、ほとんど息だった。
『…ありがとう。最後に、いい仕事ができた』
「最後とか言うな」
『三百年、水の中にいた体は、空気の中では、長くもたないの。分かってて、上がってきた』
エリスは、マーロウの手を探した。マーロウは、その手を握った。冷たかった。
『一つだけ。…自分で、決めなさい』
「何をだ」
『全部。私たちは、決める役を、機械に渡した。それが、間違いだった。…あなたは、渡さないで』
エリスの目が、ゆっくり、閉じかけた。
『名前を、書いておいて。…台帳じゃないところに』
ロズリンが、帳面を開いていた。
エリスが、それを見て、少しだけ笑った。
ロズリンは、書いた。
エリス・ケイン。十二人のうちの、一人。燃やすところの係。帝国暦三四九年、春。都の南の作業場にて。
エリスは、それを見届けて、少しだけ唇を動かした。
『…それから、十一人の名前も。書いておいて。…台帳じゃないところに、十二人、そろえて』
エリスは、一つずつ、名前を言った。息のような声で。ロズリンは、一つも聞き落とさずに、エリス・ケインの名前の下に、十一の名前を並べて書いた。
最後の一つを書き終えたとき、エリスは、目を閉じた。
閉じたまま、もう、開かなかった。
マーロウは、冷たい手を握ったまま、長いこと、動かなかった。
戸口で、足音がした。
グリフォンの伝令だった。北の畑から、夜通し飛んできた顔だった。
「鐘鳴きが…」
伝令は、息を切らしていた。
「畑に、鐘鳴きの群れが。数え切れないほど。…一殿が、一人で」
第二十九章 了