第十章
二つの名字

その夜も、マーロウは東の列で寝た。
ミラベルが、管をつないだ。肩の黒い液は、もう止まっていた。大きいのからこぼれた粒を、ロズリンが三つ選んで、ミラベルに食べさせたのだった。
『今日は、横で寝る』
ミラベルは、剣を草の上に置いて、マーロウの隣に、ごろりと横になった。
「見張るんじゃなかったのか」
『鐘のやつ、五頭とも斬ったもん。今夜は来ない』
「分からんだろ」
『来たら、起きる。あたし、坊やの寝息で起きられるの』
ミラベルは、マーロウの腕に、頭を乗せた。
しばらくして、小さく言った。
『…今日、怖かった』
「大きいのか」
『ううん。坊やが走ってきたとき。袋、吸われると思った』
マーロウは、黙った。
『来ないでって言ったら、止まってくれた。初めて、止まってくれた』
「おまえが止まれって言ったからな」
『言ったら、止まるの?』
「今日は止まった」
ミラベルは、マーロウの腕の上で、くすくす笑った。
『じゃあ、毎日言う。止まって、って』
「毎日は止まらん」
『けち』
ミラベルは、目を閉じた。
閉じたまま、言った。
『好き』
マーロウは、空を見ていた。光る草の上に、星が出ていた。
「…止まったのは、おまえがいなくなるほうが怖かったからだ」
ミラベルは、目を開けなかった。
開けないまま、マーロウの腕を、ぎゅっとつかんだ。
隣の列で、ウィラが、父親に話しかけていた。
小さな声だった。マーロウに聞かせるつもりはない声だった。聞こえてしまうのは、列が近いからだった。
「父さん。あたしね、今、荷役やってるの。市場で三番目に速いって言われてる。…今は、たぶん、二番目」
寝息だけが、返ってきた。
「マーロウっていう人と、組んでる。拾い屋。無口で、ぶっきらぼうで、豆ばっかり食べてる人」
ミラベルが、隣で、ぷっと吹き出しかけて、口を押さえた。
「その人がね、あたしに名字をくれたの。去年。ウィラ・ケイン。…勝手にもらったんじゃないよ。ちゃんと、書いてもらった。記録の人に」
ウィラの声が、少し止まった。
「父さん、怒る?」
寝息だけだった。
「怒るよね。父さん、名前にうるさかったもん。牛に名前つけたら怒ったし」
ウィラは、少し笑った。笑ってから、鼻をすすった。
「でもね。あのとき、あたし、誰もいなかったの。父さんが施療所に行って、三日して、役人が来て。そのあと、誰も、あたしの名前を呼ばなかった。市場の人は、おい、とか、そこの、とか。…マーロウだけ、ウィラって呼んだの。最初から」
マーロウは、目を閉じた。
覚えていなかった。最初にウィラと呼んだ日のことは。ただ、名前を訊いたのは覚えていた。荷車の横で、勝手についてきた痩せた子どもに。
おまえ、名前は。
それだけだった。
「だからね、父さん」
ウィラの声が、かすれた。
「父さんが起きても、あたし、ケインのままでいたい。ドーセットも、持ってる。二つとも、持ってたい。…それ、だめかな」
寝息が、一つ、深くなった。
ウィラは、父親の手を、両手で包んだ。
「起きたら、答えて。怒ってもいいから」
夜明け前、管を外したあと、マーロウは、ウィラの横に座った。
ウィラは、父親の手を握ったまま、眠っていた。
マーロウは、自分の上着を脱いで、ウィラの肩にかけた。
ミラベルが、後ろから来て、しゃがんだ。
『…聞いてた?』
「聞こえた」
『泣いてる?』
「泣いてない」
ミラベルは、マーロウの顔を覗きこんだ。
それから、何も言わずに、マーロウの頭を、自分の肩に引き寄せた。
しばらく、そうしていた。
「…おれは、名前を訊いただけだ」
マーロウは、ミラベルの肩に顔をつけたまま、言った。
「それだけで、あいつは三年、ついてきた」
『それだけ、じゃないよ』
ミラベルは、マーロウの髪を、指で梳いた。
『名前を訊いてくれる人は、それだけで、いちばんなんだよ。あたしも、そうだったもん』
東の空が、白くなりはじめていた。
ハロルド・ドーセットの瞼が、動いた。
灯りは、誰も持っていなかった。
それでも、瞼の下で、目が、朝の光のほうへ、ゆっくり動いた。
第十章 了