第十五章
七年前の夏

銃声は、一発だけだった。
いちばん端の兵が、引き金を引いた。手が震えていた。震えたまま、引いた。
弾は、ハロルドの胸へ飛んだ。
その前に、灰色の髪が割り込んだ。
甲高い音がした。
ミラベルの剣の腹が、弾を横へ弾いていた。弾は、光る草の中へ消えた。
『…撃ったね』
ミラベルは、笑っていなかった。
茶色の目も、金属の目も、兵のほうを向いていた。
次の瞬間、ミラベルの姿が、消えた。
兵たちの手の中で、銃が、次々に音を立てた。銃身が、根元から、一本ずつ落ちていった。二十本。数える間もなかった。
ミラベルは、兵たちの列の向こう側に立っていた。剣を肩に担いで。
『弾、一発で牛一頭なんでしょ。もったいないから、もう撃てないようにしといた』
兵たちは、銃身のなくなった銃を握ったまま、動けなかった。
「…何をしているのです」
ヒューゴの声が、初めて、少しだけ上ずった。
「素手で取り押さえなさい。相手は、三人だ」
兵たちが、顔を見合わせた。
その前に、大きな影が出てきた。
ドラグだった。
ドラグは、兵たちの前で止まって、低い声で言った。
『海壁の隊長、ドラグ・モーテンセンだ』
兵たちの顔が、変わった。
二人ほどが、思わず背筋を伸ばした。
「…壁の隊長は、東で死んだと」
兵の一人が、呟いた。
『死んどらん』
ドラグは、真顔で言った。
『兄貴と違って、葬式も出されとらん』
兵たちの肩から、力が抜けた。
ドラグは、ヒューゴのほうを振り向かずに、兵たちに言った。
『帰れ。帰って、壁の隊長が生きとると伝えろ。施療所で何をしとるか、共和国の畑で見た、とな』
兵たちは、動かなかった。それから、一人が、銃を地面に置いた。二人目が置いた。三人目。
二十人が、銃を置いて、船のほうへ歩きだした。
「待ちなさい」
ヒューゴが、兵の袖をつかんだ。兵は、その手を、黙って振りほどいた。
ヒューゴは、一人で、船へ走ろうとした。
その足の前に、白い髪の男が立っていた。一だった。
「…どきなさい」
『どかん』
一は、痩せた腕を組んだ。
『おれは、坑の底に九年おった。おまえの台帳に、同じ顔が百六あるなら、おれの顔もあるだろう』
ヒューゴの目が、一の顔を見た。
それから、一の肘の内側を見た。
「…〇〇一」
『覚えがいいな』
一の後ろから、ドラグの手が、ヒューゴの襟をつかんだ。
船が、光の柱を引っこめて、ゆっくり浮き上がった。二十人の兵を乗せて。白い服の男を、置いたまま。
ティルダが、帳面を開いて、ヒューゴの前に立った。
『医官殿。届け物の受け取りの判は、まだ押しておりません』
「…押しなさい。四十名、確かだと言ったでしょう」
『数を確かめたとは申しました。受け取ったとは、申しておりません』
ティルダは、帳面を閉じた。
『受け取りの判がなければ、支払いはできません。指示書に、そう書いてございます』
ヒューゴは、口を開けたまま、何も言えなかった。
ティルダは、兵たちに向き直った。
『担架の四十名は、畑で預かります。植えるのは、東の輪の中。空いている場所から』
「預かる、だけですか」
兵の一人が訊いた。畑の兵だった。
『はい。預かります。…いつか、帰るまで』
兵は、ティルダの顔を見た。
平らな顔だった。ただ、その声の最後の一言だけが、指示書のどこにも書いていない言葉だった。
その夜、ロズリンは、ヒューゴの鞄を開けた。
中に、台帳が一冊入っていた。
施療所の台帳だった。番号と、日付と、名前と、重さと、行き先。行き先の欄は、二つに分かれていた。
共和国行き。本部行き。
ほとんどが、共和国行きだった。
ロズリンは、頁をめくっていった。帝国暦三四五年、夏。ハロルド・ドーセット。共和国行き。
さらに、前へ。
三四二年の夏の頁で、ロズリンの指が止まった。
一行だけ、本部行きの欄に、名前があった。
ロズリンは、帳面を持って、マーロウのところへ行った。
何も言わずに、その行を指さした。
帝国暦三四二年、夏。リーネ・ケイン。海壁の街。本部行き。
マーロウは、その字を、長いこと見ていた。
母さんが熱を出して倒れて、役人が施療所へ運んだ。三日後に、死んだと言いに来た。
七年前の夏だった。
ヒューゴが、縛られたまま、火の向こうから言った。
『施療所は、帝国じゅうに四十あります。私を一人止めても、明日も、瓶は配られます』
マーロウは、台帳を閉じた。
ミラベルが、隣で、マーロウの手を握った。
マーロウは、握り返した。強く。
「…なら、四十、止める」
第十五章 了