海壁

第五章

ハロルド

挿絵:ハロルド

杭の札には、こう書いてあった。

帝国より。帝国暦三四五年、夏。海壁の街。重さ、五十八。

名前は、なかった。

『…ハロルド』

ウィラが言った。

『ハロルド・ドーセット。父さんの名前』

ロズリンが、杭の前にしゃがんで、札の番号の横に、その名前を書き足した。去年、ガリー・ノーツの名前を書いたのと、同じ筆で。

呼んでみろ、とマーロウは言った。

ウィラは、父親の顔の横に、額がつくほど近く、しゃがんだ。

「父さん。ウィラだよ」

男の瞼が、動いた。

開いた。

濁った目が、空を見て、それから、ゆっくりウィラの顔に下りてきた。

唇が、動いた。

『いらっしゃいませ。何か、ご用でしょうか』

ウィラの肩が、跳ねた。

マーロウは、ウィラの背中に手を置いた。置いたまま、何も言わなかった。

「…ううん」

ウィラは、首を振った。

「用は、ないの。顔、見に来ただけ」

『さようでございますか』

男の目が、また閉じた。

ウィラは、長いこと、そのまま動かなかった。


夕方、火のそばで、一が言った。

『東の列は、おれの輪から遠すぎる』

一は、地面に指で丸を描いた。

『輪の中の連中の目が動くようになったのは、おれの血で育った草のそばにいたからだ。東の端までは、届かん。届かせるには、おれが東へ移るか』

「移ったら、輪の中の連中が止まる」とマーロウが言った。

『そうだ』

一は、黙った。

ロズリンも黙った。ドラグも、ミラベルも黙った。

ウィラは、豆の椀を持ったまま、一口も食べていなかった。

マーロウは、自分の左の手のひらを見た。

「もう一人いる」

全員が、マーロウを見た。

「同じ血が、もう一人いる。おれが、東の列で寝ればいい」


『だめ』

最初に言ったのは、ミラベルだった。

『管、胸に刺すんでしょ。刺したまま寝るんでしょ。おじさんみたいに痩せるんでしょ』

「一晩じゅうじゃない。夜のうちの何時間かだ」

『だめ。触らないで。あたしの坊やに、あんな管、触らないで』

「触るのは管じゃない。おれの血だ」

『屁理屈!』

「屁理屈でいい」

一が、口を挟んだ。

『おまえは、寝とる場合じゃないだろう』

「あんたは寝てるだろ」

『おれは、ほかにすることがない』

「おれにもある。でも、今いちばんすることは、これだ」

マーロウは、ウィラのほうを見なかった。見たら、ウィラが何か言う気がした。言わせたくなかった。これは、頼まれてやることではなかった。

ウィラは、椀を膝に置いた。

『…マーロウ』

「頼まれてない。おれが決めた」

『まだ何も言ってない』

「言う前に言っとく」

ウィラは、唇を噛んだ。噛んだまま、泣きそうな顔で、笑った。

『ばかだ』

「知ってる」


ミラベルは、それから、ずっと口をきかなかった。

夜、荷車の陰で、マーロウが毛布を持って立ち上がると、ミラベルは、その袖をつかんだ。

『…一個だけ、約束して』

「なんだ」

『管をつなぐのは、あたしがやる。外すのも、あたしがやる。ほかの誰にも、触らせない』

マーロウは、少し考えた。

「分かった」

『それと、寝てるあいだ、あたしが横にいる。鐘のやつが来たら、あたしが斬る』

「一個だけって言ったろ」

『二個目は、おまけ』

ミラベルは、マーロウの手を引いて、東の列へ歩きだした。

ハロルド・ドーセットの隣の列に、空いた場所があった。去年まで誰かが寝ていて、今は誰もいない場所。杭の札は、外されていた。

マーロウは、そこに横になった。

ミラベルが、胸の上で、管の先を持った。細い、中の空いた針だった。

手が、少し震えていた。

『…痛い?』

「痛くない。知ってるだろ」

『知ってる。知ってるけど、訊きたいの』

針が、胸に入った。

何も感じなかった。

管の中を、赤いものが、ゆっくり草の根元のほうへ流れていった。

マーロウの横の草が、少しずつ、明るくなった。

ミラベルは、マーロウの頭の横に座って、剣を膝に置いた。

『好き』

「知ってる」

『寝るまで、言う』

「寝かせる気がないだろ」

『じゃあ、朝まで言う』

マーロウは、目を閉じた。

好き、が、何度も聞こえた。

隣の列で、ハロルド・ドーセットが、寝息を立てていた。

その寝息の向こうで、ウィラが、父親の手を握ったまま、座っていた。

朝まで、そこにいた。

第五章 了