海壁

第二十二章

名前を読む

挿絵:名前を読む

トビー・マーシュの手首は、一拍だけ止まって、また管のほうへ動きだした。

マーロウは、その手首を握ったまま、言った。

「トビー」

手首が、また止まった。

「トビー・マーシュ。東の谷の」

若い兵の目が、マーロウの顔に下りてきた。何も見ていなかった目が、何かを探すように、揺れた。

「おまえ、三四七年の冬に、熱を出したんだろ。施療所で、瓶を飲まされた」

兵の唇が、動いた。

声は、出なかった。

それでも、手首の力が、抜けた。

兵は、管から手を離した。離して、その場に、膝をついた。膝をついたまま、自分の手を見ていた。

マーロウは、荷車の上のロズリンを振り向いた。

「効く! 呼び続けろ!」


ロズリンは、呼び続けた。

兵が一人、東の輪に近づくたびに、その襟の数字を読んで、台帳をめくって、名前を読んだ。

三四四年、夏。港の街。ヨナタン・レイク。

一人が、止まった。

三四六年、秋。カルヴァ。マルゴ・フィン。

一人が、止まった。

三三九年、冬。東の谷。ベネディクト・オーム。

また一人。

だが、遅かった。一人の名前を探すあいだに、十人が近づいてきた。

『数字は、私が読みます』

ティルダが、荷車の横に立っていた。帳面を抱えて。

『私の目は、札を読むのが早うございます。十九年、札ばかり読んで参りましたので』

ティルダは、兵の列を見渡して、次々に数字を読み上げた。

ロズリンの指が、それに追いついた。

名前が、畑に響いた。一つ。二つ。五つ。十。

呼ばれた兵が、一人ずつ、止まった。止まって、膝をついた。

止まらない兵もいた。一拍止まって、また歩きだす兵も。

そういう兵の前に、ハロルドが、杖をついて立った。

「…わしも、瓶を飲んだ」

かすれた声だった。それでも、兵の前で、はっきり言った。

「四年、寝ていた。娘に名前を呼ばれて、起きた。…おまえの名前は、今、呼ばれた。聞こえたろう」

兵は、ハロルドの顔を見ていた。

長いこと見ていた。

それから、槍を、地面に置いた。


柱に繋がれたまま、ヒューゴが、それを見ていた。

ロズリンが読み上げる名前の半分は、ヒューゴ自身が判を押した名前だった。瓶を渡して、共和国行きと書いた名前だった。

ヒューゴの顔から、あの平らな笑みが消えていた。

「…止まるはずがない」

ヒューゴは、呟いた。

「変わった者は、名前など覚えていない。私は、そう教わった。そう、書いてきた」

誰も、ヒューゴに答えなかった。

一だけが、食事の椀を下げに来たときと同じ顔で、ヒューゴの前にしゃがんだ。

『覚えとるよ』

一は、言った。

『覚えとるんだ。全部。自分が頭を下げとるのを、後ろから見とる。止められんだけだ。…おれも、そうだった』


グレイが、船の前で、手を上げた。

『撃て』

十二隻の船の腹から、筒が突き出した。

帝国の船の砲だった。一年前、海壁の街の上に落ちてきた船にも、同じものが付いていた。

筒の先が、東の輪に向いた。

ミラベルが、剣を握り直した。

その瞬間、南の空が、翼で埋まった。

灰色の翼。茶色の翼。先だけ黒い翼。十一の翼が、低く、速く、畑の上を渡ってきた。その先頭に、灰白色の、左右八メートルの翼があった。

ラーナだった。

ラーナは、いちばん端の船の砲の筒に、まっすぐ突っ込んだ。体ごとぶつかって、筒をねじ曲げた。

その後ろから、船が来た。帆に、グリフォンの羽根の模様。

提督の船だった。その後ろに、さらに二隻。

提督の船の舳先に、翼のない男が立っていた。背中に、何もない。帝国の軍服の、袖が短い。

その横で、子どもが一人、手を振っていた。

ニコだった。

「遅れた!」

ケイルの声が、空から降ってきた。

「昔から遅れるのは、おれのほうだったな!」


ミラベルは、もう迷わなかった。

兵ではなく、船へ跳んだ。

砲の筒を、根元から、一本ずつ落としていった。一隻目。二隻目。三隻目。何も踏まずに、空を渡って。

筒が落ちるたびに、兵ではなく、鉄が、地面に刺さった。

「人じゃなければ、いくらでも斬れるの!」

ミラベルは、笑っていた。今日初めて。

十二隻の砲が、全部、畑に落ちた。

グレイは、船の前に立ったまま、動かなかった。

六百人のうち、半分近くが、膝をついて止まっていた。残りの半分は、まだ歩いていた。だが、その歩みの前には、名前を呼ぶ声と、翼と、刃を持たない女が立っていた。

グレイは、腰の剣を抜いた。

帝国の将軍の剣だった。飾りではない。使い込まれた、刃こぼれのある剣だった。

グレイは、剣の先を、ドラグに向けた。

『モーテンセン』

よく通る声が、畑に響いた。

『来い。おまえを壁に立たせたのは、私だ。降ろすのも、私がやる』

ドラグは、しがみついていた兵を、そっと地面に下ろした。

それから、ロズリンのほうを、一度だけ見た。

ロズリンは、台帳を抱えたまま、ドラグを見返した。

何も言わなかった。

言わなくても、ドラグには分かった。片づけてください、と。

第二十二章 了