第十六章
二人の父親

五日たつと、ハロルドは、杖をついて畑の端まで歩けるようになった。
朝、マーロウが東の列から戻ってくると、ハロルドが、小屋の前の丸太に座っていた。
隣が、空いていた。
マーロウは、少し迷ってから、そこに座った。
二人とも、しばらく黙って、畑を見ていた。
『…あの子の、名字の話を、聞いた』
ハロルドが、先に言った。声は、まだかすれていた。それでも、もう一語ずつ引っぱり出すような話し方ではなかった。
『ケイン、と』
「勝手にやった。悪かった」
『悪く、ない』
ハロルドは、杖の先で、地面を小さくつついた。
『わしが寝ているあいだ、あの子に、名前を呼ぶ者がいなかった。…あの子が、そう言っていた。夜に、わしに話しかけていたのを、覚えている。半分だけ、だが』
マーロウは、黙った。
『四年、あの子の父親をやってくれたのは、あんただ』
「三年半だ」
ハロルドが、マーロウを見た。
『…数えるのか』
「拾い屋だからな」
ハロルドは、しばらくマーロウの顔を見ていた。
それから、少しだけ笑った。ウィラが笑うときと同じ、口の端だけで。
『あの子の父親は、二人いる。…それで、いい。わしは、それで、いい』
マーロウは、畑を見た。
胸の奥の、あの小さく冷えていたところが、少しだけ、ぬるくなった。
昼、ウィラが、父親の横に座って、豆を食べさせていた。
ハロルドは、自分で匙を持てた。持てたが、ウィラが持たせなかった。
「母さんの話、して」
『…何を』
「なんでもいい。どうやって会ったの」
ハロルドは、しばらく空を見ていた。
『牛の市だ。わしは、牛を売りに来ていた。エマは、隣で、鶏を売っていた』
「うん」
『売りながら、歌っていた。客寄せのつもりだったらしい』
ハロルドの口の端が、動いた。
『ひどかった。鶏が、逃げた』
ウィラが、豆を噴き出しかけた。
『わしが、笑った。そうしたら、桶で殴られた』
「桶で」
『水の入った桶だ。頭から、びしょ濡れになった。…次の市の日に、また隣に来た。また歌っていた。また、笑った。また、殴られた』
「何回、殴られたの」
『七回だ。八回目の市の日に、嫁に来てくれと言った。九回目に、来た』
ウィラは、豆の椀を持ったまま、笑った。笑いながら、泣いていた。
「…ばかじゃん。二人とも」
『ばかだった。二人とも』
ハロルドは、ウィラの頭に、骨ばった手を置いた。
『おまえが五つの冬に、咳の病で。家で。わしの腕の中で、だ。最後まで、歌っていた。子守唄だった。…ひどい子守唄だった』
ウィラは、父親の手の下で、動かなかった。
「その歌、覚えてる。…歌える?」
『歌えん。わしは、もっと下手だ』
「いいよ。下手でいい」
ハロルドは、長いこと黙っていた。
それから、かすれた声で、少しだけ、歌った。
本当に、ひどかった。音が、一つも合っていなかった。
ウィラは、父親の肩に頭を押しつけて、最後まで聞いていた。
少し離れたところで、ミラベルが、口を押さえて、震えていた。泣いているのか笑っているのか、自分でも分からない顔で。
その夜、火のまわりに、全員が集まった。
一が豆を煮た。ロズリンが塩を控えるように言って、ドラグが黙って塩を足した。ヨルンとユランが、背中合わせで椀を抱えていた。ミラは、一の横に座って、一の顔とマーロウの顔を交互に見ていた。
ティルダが、帳面を抱えて、火の端に座った。誰も呼んでいなかった。呼ばなくても、来た。
ハロルドが、ウィラの隣で、椀を持っていた。その反対側に、マーロウがいた。
ミラベルが、マーロウの隣で、にやにやしていた。
『お父さんが、二人』
「うるさい」
『おじさんもいるし。ミラもいるし。ドラグもいるし』
ミラベルは、指を折って数えた。
『ねえ、嬢ちゃん。あたしは、何?』
ウィラは、豆を口に入れたまま、ミラベルを見た。
「…うるさい人」
『ひっど!』
火のまわりが、どっと笑った。ハロルドも、かすれた声で笑った。一も笑った。ドラグの口の端も動いた。ティルダだけが、笑わずに、帳面に何かを書いていた。
ロズリンが、それを横から覗いた。
今日の欄に、ティルダの字で、一行あった。
火のまわりの者、十一名。笑った者、十名。
ロズリンは、しばらくその行を見ていた。
それから、自分の帳面を開いて、書いた。
笑わなかった者、一名。ただし、数えていた。
火が小さくなってから、ウィラが、自分の帳面を開いた。
南へ来るとき、ロズリンにもらった、小さな帳面だった。
最後の頁の、ミアの名前の、さらに下に、ウィラは書いた。
父、ハロルド・ドーセット。母、エマ・ドーセット。
それから、少し考えて、その下に、もう一行。
父、マーロウ・ケイン。
ウィラは、書いた頁を、誰にも見せずに閉じた。
閉じて、帳面を胸に抱えたまま、父親の肩と、マーロウの肩のあいだに、頭を落として、眠った。
第十六章 了