第十七章
エルナの村

『二晩、管を休め』
言いだしたのは、一だった。
『おまえは痩せすぎだ。頬が、おれに似てきた。似なくていいところが似てきた』
「痩せてない」
マーロウは言い返した。その先を続けるより早く、ロズリンが帳面を開いた。
『塩が、あと四日ぶんです。豆は六日ぶん。北東へ半日のところに、村があると監督官が言っていました』
ティルダが、横から付け足した。エルナの村。井戸が深く、市が立つ、と。
「…塩くらい、誰か行けばいい」
『鐘鳴きは、双子とおれで見る。東の列は、一が見る。二晩くらいなら、どうにでもなる』
ドラグが、腕を組んだまま言った。行くのはおまえだ、という言い方だった。
マーロウは、全員の顔を見た。
全員が、同じ顔をしていた。行け、という顔だった。
ミラベルだけが、違う顔をしていた。
目が、きらきらしていた。
荷車に馬を一頭だけつないで、二人で出た。
光る草の畑を抜けると、赤い土の道になった。道の両側に、背の低い木がまばらに生えていた。
ミラベルは、御者台のマーロウの隣に座っていた。いつもなら横を歩く女が、今日は座っていた。
『ねえ』
「なんだ」
『これって、あれだよね』
「どれだ」
『二人だけで、どっか行くやつ。ロズリンの本に書いてあった。でーと、っていうの』
マーロウは、手綱を握ったまま、前を見ていた。
「塩を買いに行くだけだ」
『塩を買いに行くでーと』
「…好きに呼べ」
ミラベルは、マーロウの腕に、自分の腕を絡めた。
『でーと。でーと。生まれて初めての、でーと』
エルナの村は、家が三十ほどの、小さな村だった。
真ん中に、石で囲った深い井戸があった。その周りに、市が立っていた。塩、豆、干した実、布、鍋。売っているのは、人間と、ゴブリンと、オーク。混ざって、並んでいた。
ミラベルは、市の端から端まで、三回歩いた。
一回目は、見るだけ。二回目は、触るだけ。三回目に、布屋の前で止まった。
細い、赤い紐が、束になって売っていた。
「これ、二本」
布屋のゴブリンの婆さんが、目を細めた。
『二本かい。結ぶのかい』
「結ぶ?」
『この村じゃ、二本買うのは、結ぶ者だけさ。手首に結んで、井戸の前で、言うことを言う』
ミラベルの目が、丸くなった。
それから、ゆっくり、マーロウのほうを振り向いた。
マーロウは、塩の袋を担いだまま、目を逸らした。
井戸の前で、若い女が、赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊が、泣いていた。女が、困った顔で揺すっていた。その横で、背の低いゴブリンの男が、おろおろしていた。
ミラベルが、足を止めた。
赤ん坊が、泣きやんだ。
ミラベルの左手を、見ていた。光を返さない金属の指を。
小さな手が、伸びてきた。
ミラベルは、固まった。
赤ん坊の手が、ミラベルの金属の人差し指を、ぎゅっと握った。
『…あら』
女が、目を丸くした。
『この子、人見知りなのに。珍しい』
「…あったかい」
ミラベルの声が、震えていた。
「あたしの指、金属なのに。握られたとこ、あったかい」
女が、少し笑った。
『抱いてみる?』
ミラベルは、マーロウを見た。助けを求めるような顔だった。
マーロウは、頷いた。
ミラベルは、女の腕から、赤ん坊を受け取った。
受け取り方が、ひどく下手だった。剣は目にも留まらない速さで振るのに、赤ん坊一人を、落とさないように抱くのに、全身をこわばらせていた。
赤ん坊は、ミラベルの腕の中で、あくびをした。
耳の先が、少しだけ、尖っていた。
「…この子」
『父親が、ゴブリンでね』
女は、横のゴブリンの男の腕を取った。男は、照れたように鼻をこすった。
『この村じゃ、珍しくないの。昔から、そうなの』
ミラベルは、赤ん坊の顔を、ずっと見ていた。
見ていて、目が、濡れてきた。
赤ん坊を返したあと、ミラベルは、井戸の縁に腰を下ろした。
黙っていた。珍しく。
マーロウは、隣に座った。
『…坊や』
「ああ」
『あたし、赤ちゃん、欲しくなっちゃった』
マーロウは、何も言わなかった。
『あたしの体で、産めるのかな。粒で動いてる体で。…分かんないよね』
「分からん」
『だよね』
ミラベルは、膝を抱えた。
『でもね。産めなくても、欲しいって思うのは、自由でしょ』
マーロウは、井戸の底を見た。暗くて、水の音だけがした。
「…おまえに似たら、うるさいだろうな」
ミラベルが、顔を上げた。
「朝から晩まで、好き好き言う。豆を三つ取る。人の腕に勝手にしがみつく」
『…坊やに似たら、無口で、ぶっきらぼうで、豆ばっかり食べる』
「どっちでもいい」
マーロウは、ミラベルのほうを見ずに言った。
「どっちに似ても、おれは、毎日数える。今日もいた、って」
ミラベルは、口を開けたまま、止まった。
それから、ポケットから、赤い紐を二本、出した。
さっき布屋で買った、細い紐だった。
『…結んで』
マーロウは、紐を一本受け取った。
ミラベルの右手首に、巻いた。金属ではないほうの手首に。結び目を、固く。
ミラベルが、もう一本を、マーロウの左手首に巻いた。指が震えて、三回、結び直した。
『言うこと、言うんでしょ。井戸の前で』
「…何を言えばいい」
『自分で考えて』
マーロウは、井戸を見た。それから、手首の赤い紐を見た。
長いこと、黙っていた。
「…おまえがいる日を、全部数える。数えるのをやめる日まで」
ミラベルは、泣きながら、笑った。
『あたしは、坊やの隣にいる。坊やが数えるのをやめても、隣にいる。二百十一年ぶん待ったんだから、あと何年でも、いる』
二人の手首で、赤い紐が、夕日を受けていた。
井戸の向こうで、布屋のゴブリンの婆さんが、にやにやしていた。
第十七章 了