海壁

第十三章

施療所

挿絵:施療所

提督は、畑の数を写し終えると、翌朝の光の柱で都へ戻っていった。十年でも二十年でもない数を探す、と言い残して。

提督の船が来た二日後の朝、ハロルド・ドーセットが、三度目に目を開けた。

今度は、すぐには閉じなかった。

ウィラが、横にいた。いつものように、手を握っていた。

濁った目が、ウィラの顔を見た。それから、ウィラの手を見た。自分の手を握っている手を。

『…大きく、なった』

かすれた声だった。一語ずつ、奥から引っぱり出すような声だった。

ウィラは、唇を噛んで、頷いた。

「十六になった」

『十六』

ハロルドの唇が、その数を、確かめるように動いた。

『…十二、だった』

「うん。父さんが施療所に行ったとき、十二だった」

ハロルドの目が、空のほうへ逸れた。

しばらく、何も言わなかった。

それから、ゆっくり、言った。

『施療所、で。白い服の、男が』

ウィラの手に、力が入った。

マーロウは、少し離れたところで、息を止めて聞いていた。ロズリンが、その横で、帳面を開いていた。

『小さな、瓶を。飲め、と。熱に、効く、と』

「…飲んだの?」

『しょっぱ、かった』

ハロルドの指が、ウィラの手の中で、かすかに震えた。

『朝、起きたら。自分が、遠かった。自分の、手が。自分の、声が。…ございます、と、言っていた』

ハロルドは、目を閉じた。

閉じたまま、言った。

『横の、寝床の、者も。みんな。…ございます、と』


ロズリンの筆が、止まっていた。

マーロウは、自分の手のひらを見ていた。

母さんが熱を出して倒れて、役人が施療所へ運んだ。

オットは、小さなガラスの瓶を持っていた。サムの血を、それで確かめていた。オットとサムは、一晩で変わった。

深い水を煮詰めれば、一晩で変わる。

「…施療所で、変えてたのか」

マーロウの声が、低くなった。

「熱を出したやつを運んで、瓶を飲ませて、一晩で変えて。死んだって家族に言って、共和国に売る」

ドラグが、後ろで、拳を握りしめていた。

『十四年、壁に立っとった。施療所の荷車が、夜に東門を出ていくのを、何度も見とる。熱病の死体だと、聞かされとった』

ドラグの声が、かすれた。

『…確かめなかった。一度も』

ロズリンが、筆を拾い直した。

拾って、書いた。一字も、崩さずに。

帝国暦三四九年、春。ハロルド・ドーセット。施療所で、瓶の水を飲まされた、と言った。

それから、もう一行、書き足した。

リーネ・ケインも、施療所へ運ばれている。


ハロルドは、しばらく眠って、昼過ぎに、また目を開けた。

ウィラは、まだそこにいた。

ハロルドの目が、ウィラを見た。今度は、さっきより、少し長く。

『…ウィラ』

「うん」

『怒って、いない、か。…父さんを』

ウィラは、首を振った。何度も。

「怒ってない。あたしが、怒られるほう。父さんの名字、半分、ほかの人にあげちゃった」

ハロルドは、分からない、という顔をした。

ウィラは、少し笑った。泣きながら。

「いいの。あとで、ちゃんと話す。…それより、一個だけ、訊きたいことがあるの」

ウィラは、父親の手を、両手で包み直した。

「母さんの名前。誰も、教えてくれなかった」

ハロルドの目が、ゆっくり、瞬いた。

長い沈黙があった。

沈黙のあいだ、ハロルドの唇が、何度か動いて、止まった。何かを探していた。四年ぶんの遠さの向こうに置いてきたものを。

それから、言った。

『…エマ』

ウィラの息が、止まった。

『エマ。…おまえの、母さんは、エマ』

ハロルドの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。笑おうとしたのかもしれなかった。

『歌が、下手だった。…ひどく』

ハロルドは、少し黙った。

『…七年、名前を、言えなかった。呼ぶと、また、いなくなる気がして。…すまん』

ウィラの目から、涙が、ぼろぼろこぼれた。

「…覚えてる」

声が、崩れた。

「声だけ、覚えてるの。顔は覚えてないのに、声だけ。…ひどい歌だった。ほんとに、ひどかった」

ウィラは、父親の手に額を押しつけて、声を上げて泣いた。

ロズリンが、帳面に書いた。

エマ・ドーセット。

マーロウは、ロズリンの帳面のその一行を、長いこと見ていた。

おまえの母さんの名前は、誰も知らない。去年、マーロウ自身がウィラにそう言った。

知っている者が、いた。


その夜、北の空に、光が見えた。

ヨルンが、丘の上から走ってきた。

「船だ! 北から! 共和国の船じゃない!」

ユランが、その後ろで、声を低くした。

『…帝国の船だ』

マーロウは、丘に上がった。

北の、国境の向こうの空から、長い影が、ゆっくり降りてきていた。

腹に、白い光。翼はない。全長は、六十メートルほど。

一年前、海壁の街の上に落ちてきたのと、同じ形の船だった。

船の腹に、帝国の印が、灯りに照らされていた。

ドラグが、マーロウの横に立った。

その顔が、こわばっていた。

『…届け物の船だ』

「届け物」

『施療所の荷だ』

畑の二万人が、寝息を立てていた。

その上を、帝国の船が、ゆっくり、降りてきていた。

第十三章 了