海壁

第十八章

生まれ変わったら

挿絵:生まれ変わったら

村の外れに、旅籠が一軒あった。

部屋は、二階に一つだけ。寝台が一つ。窓が一つ。窓の外に、井戸の屋根が見えた。

旅籠の主は、オークの女だった。二人の手首の赤い紐を見て、何も言わずに、鍵を一本だけ渡した。

階段を上がる途中で、ミラベルが、マーロウの背中に額をつけた。

『…なんか、緊張する』

「今さらか」

『今さらだよ。なんか、今日は、違うの』

部屋に入って、戸を閉めた。

ミラベルは、寝台の端に座って、手首の紐を、指でいじっていた。

『坊や』

「なんだ」

『灯り、消して』

マーロウは、灯りを消した。


しばらくして、窓の外で、井戸の滑車が、風に一度だけ鳴った。

ミラベルは、毛布の中で、マーロウの腕を枕にしていた。

『…ねえ』

「なんだ」

『今の、今までで、いちばんだった』

マーロウは、天井を見ていた。暗くて、何も見えなかった。

「…何と比べてるんだ」

『比べるものないけど、いちばん』

「それは、いちばんって言わない」

『言うの。あたしが決めたの』

ミラベルは、マーロウの胸に、指で丸を描いた。

『ねえ。生まれ変わったら、どうする?』

「生まれ変わらない」

『もしもの話!』

マーロウは、少し考えた。

「…分からん。考えたことがない」

『あたしは、考えた。今日、赤ちゃん見てから、ずっと』

ミラベルは、毛布の中で、少し身を起こした。

『生まれ変わったら、あたし、ふつうの人間がいい。市場で、鶏とか売ってて。歌が、すっごく下手なの』

マーロウは、吹き出した。

「桶で殴るのか」

『殴る。笑った人、全員殴る』

「じゃあ、おれは、牛を売ってるやつだな」

『え』

「隣で。おまえの歌を聞いて、笑う。殴られる」

ミラベルが、黙った。

それから、マーロウの胸に顔を埋めて、足をばたばたさせた。

『…ずるい。ずるいずるい。そういうの、急に言うの、ずるい』

「おまえが訊いたんだろ」

『何回殴られる?』

「七回」

『八回目に?』

「嫁に来てくれって言う」

『九回目に、行く』

ミラベルは、顔を埋めたまま、動かなくなった。

肩が、震えていた。

マーロウは、その頭に、手を置いた。

「…泣くことか」

『泣くことだよ。ばか』


しばらくして、ミラベルが、顔を上げた。

『ねえ、坊や』

「なんだ」

『いつから、あたしのこと、好きだった?』

マーロウは、答えなかった。

『ねえ』

「…覚えてない」

『うそ。覚えてる顔』

「暗くて顔は見えないだろ」

『見えなくても分かるの。あたしが、どれだけ坊やの横顔見てきたと思ってんの』

マーロウは、しばらく黙っていた。

「…鐘鳴きの原っぱで、惚れたって言われたとき、取り消せって言った」

『言った。今すぐ取り消せって』

「取り消されたら困ると思ったのは、たぶん、その晩だ」

ミラベルは、息を止めた。

それから、毛布ごと、マーロウに飛びついた。

『…もう一回』

「何をだ」

『分かってるくせに。もう一回、しよ』

「さっきしたろ」

『さっきはさっき。今は今』

マーロウは、天井を見た。

見えなかった。

「…止まるなよ」

『止まんない。あたし、粒で動いてるんだから』


窓の外が、少しだけ明るくなりかけていた。

ミラベルは、マーロウの肩に頬を乗せて、指で、マーロウの手首の赤い紐をなぞっていた。

『三回目も、したい』

「朝になる」

『朝になってもいい』

「帰りの道がある」

『道は逃げない』

マーロウは、目を閉じた。

閉じたまま、言った。

「…子どもの名前」

ミラベルの指が、止まった。

「もしもの話だ。もし、おまえに似た子がいたら。何てつける」

ミラベルは、長いこと黙っていた。

それから、小さな声で言った。

『…坊やが、つけて。あたし、名前をもらうほうが、得意だから』

マーロウは、考えた。

考えて、何も思いつかなかった。

「…考えとく」

『何年かかってもいいよ』

ミラベルは、マーロウの胸に、耳をつけた。

『坊やの心臓、ゆっくり。…あたし、この音、好き』

「ずっと鳴ってる」

『ずっと鳴ってて』

「…ああ」

窓の外で、井戸の滑車が、また一度、鳴った。


朝、旅籠の主のオークの女が、階段の下で、二人を見送った。

ミラベルは、耳まで赤くして、マーロウの背中に隠れていた。

主は、何も言わなかった。

言わずに、包みを一つ、マーロウに押しつけた。焼いた豆の菓子だった。

『二人ぶん』

それだけ言って、奥へ引っこんだ。

荷車の上で、ミラベルは、ずっと毛布をかぶっていた。

「…いつまでかぶってる」

『村が見えなくなるまで。恥ずかしくて死ぬ』

「死なないだろ」

『死ぬの。生きてきたなかで、いちばん恥ずかしい朝なの。この前のより、恥ずかしいの』

マーロウは、手綱を持ったまま、少しだけ笑った。

毛布の端から、ミラベルの右手が出てきた。手首に、赤い紐。

マーロウは、自分の左手を、その手に重ねた。こちらにも、赤い紐。


夕方、畑に戻った。

最初に気づいたのは、ウィラだった。

二人の手首を見て、目を細めた。

『…それ、なに』

ミラベルが、胸を張った。

「結んだの。エルナの村の井戸の前で。言うこと、言ったの」

ウィラは、マーロウを見た。

マーロウは、塩の袋を下ろしながら、目を逸らした。

『…それって』

ウィラの顔が、ゆっくり、赤くなった。

『結婚したってこと?』

火のまわりで、豆を煮ていた一が、椀を取り落とした。

ロズリンの筆が、止まった。ドラグが、咳き込んだ。ティルダが、帳面を開いた。

マーロウは、塩の袋を担いだまま、答えなかった。

答えないのが答えだ、とミラベルが言った。

第十八章 了