海壁

第二十三章

頼み

挿絵:頼み

グレイの剣は、速かった。

年寄りの剣ではなかった。四十年、帝国の兵を率いてきた男の剣だった。無駄がなく、迷いがなく、ドラグの首と、脇と、膝を、順に狙ってきた。

ドラグは、素手だった。

一太刀目を、身を沈めてかわした。二太刀目を、腕で受けた。刃が、前腕の肉を裂いた。緑の肌に、赤い筋が走った。

三太刀目は、受けなかった。

踏み込んだ。

刃の内側へ。グレイの胸の前へ。剣が振り下ろされる前に、その腕の付け根を、両手でつかんだ。

グレイの足が、地面から浮いた。

ドラグは、そのまま、将軍の体を、肩越しに投げた。

灰色の軍服が、光る草の上に叩きつけられた。剣が、手から離れて、三つ向こうの杭のそばに落ちた。

グレイは、仰向けのまま、空を見ていた。

『…組むのは、昔から、おまえのほうが上手かったな』

ドラグは、答えなかった。息が、荒かった。前腕から、血が落ちていた。

グレイは、首だけ動かして、ドラグを見上げた。

『殺さんのか』

「殺さん」

『なぜだ』

ドラグは、荷車のほうを、顎で指した。

荷車の上で、ロズリンが、台帳を抱えて立っていた。膝が、震えていた。震えたまま、こちらを見ていた。

「書くやつが、横で見とる。つまらんことを書かせたくない」


グレイは、しばらく草の上に寝たまま、動かなかった。

それから、ゆっくり、起き上がった。剣は、拾わなかった。

六百人を見渡した。

半分近くが、膝をついていた。槍を置いて、自分の手を見ていた。名前を呼ばれた者たちだった。

残りの半分は、まだ立っていた。槍を持って、次の言葉を待っていた。

グレイは、立っている者たちに向かって、言った。

『帰船』

立っていた兵たちが、同時に向きを変えた。同じ速さで、船のほうへ歩きだした。

膝をついていた者たちは、動かなかった。

グレイは、その者たちを、長いこと見ていた。

『…帰船だ』

もう一度、言った。

誰も、立たなかった。

一人の兵が、膝をついたまま、顔を上げた。トビー・マーシュだった。唇が動いて、かすれた声が、少しだけ出た。

「…東の谷に、帰りたい、です」

グレイの顔が、初めて、わずかに歪んだ。


ティルダが、帳面を抱えて、グレイの前に立った。

『将軍閣下。膝をついた者は、二百八十七名でございます』

グレイは、変わった女を見下ろした。

「…おまえも、変わった者か」

『はい。帝国暦三三〇年に』

「その者たちを、どうする」

『預かります』

ティルダは、平らな声で言った。

『畑で、預かります。…いつか、帰るまで』

グレイは、黙った。

それから、船のほうへ、背を向けた。

二、三歩、歩いて、止まった。振り向かずに、皇帝に何と伝えればいい、とドラグに訊いた。

ドラグが、答えた。

「施療所の兵が、名前を呼ばれて止まった、と。二百八十七人」

『それを、信じる者はおらん』

「信じなくても、数は数だ。書いたやつがいる」

グレイは、何も言わずに、船に乗った。

十二隻の輸送船が、砲を失った腹を光らせて、北の空へ上がっていった。

ヒューゴ・ランベールは、柱に繋がれたまま、それを見送っていた。

誰も、ヒューゴを連れていかなかった。ヒューゴも、連れていけとは言わなかった。


提督の船が、畑の南に降りた。

光の柱から、最初に飛び出してきたのは、ニコだった。

ニコは、畑を走って、まっすぐウィラに飛びついた。

『ウィラ!』

「ニコ! あんた、筒、飲んでた?」

『飲んでた! 一日一口! ドンのとこで、毎日!』

「えらい」

ウィラは、ニコの頭を、両手でぐしゃぐしゃにした。泣きながら。

ケイルが、柱から降りてきて、ドラグの前に立った。

弟の前腕の傷を見て、それから、将軍が投げられた跡の、倒れた草を見た。

『遅れんかったな、今日は』

「兄貴が遅れた」

『ああ。遅れた』

ケイルは、弟の肩を、一度だけ、強く叩いた。

提督が、畑を見渡して、帳面を開いた。二百八十七、と書いて、数が増えたな、と小さく言った。


その夜、火のまわりは、いつもより倍以上の人で埋まっていた。

膝をついた兵たちが、畑の端で、毛布にくるまって座っていた。誰も、眠っていなかった。ときどき、誰かが、自分の名前を、小さな声で口の中で転がしていた。

ニコが、マーロウの横に座った。

『トンがね、いそいでるの』

「手紙で読んだ」

『蓋の下の人、起きかけてるって。…マーロウに、会いたいって。その人が、じゃなくて、トンが。その人に、会わせたいって』

マーロウは、火を見た。

そのとき、提督の腰の硝子の板が、白く光った。

提督が、板を取り出した。

白い字が、浮かんでいた。提督は、それを読んで、眉を寄せた。

それから、黙って、マーロウに差し出した。

マーロウは、読んだ。

一〇六番へ。

蓋の下のものに、会ってはいけません。

マーロウは、板を持ったまま、しばらく動かなかった。

本部が、自分から字を送ってくるのは、珍しかった。約束を破棄すると言ってきた、あの日以来だった。

「…理由は」

マーロウが言うと、提督が、その言葉を板に書いた。

しばらくして、白い字が浮かんだ。

理由を伝えると、あなたが行く見込みが上がります。ですから、伝えません。

一行、間があった。

三百四十年で、初めて、頼みます。

行かないでください。

第二十三章 了