海壁

第四章

杭の札

挿絵:杭の札

二日目の昼までに、ロズリンは千二百の杭を写した。

杭の札には、名前がない。番号と、入った日と、重さ。それから、どこから来たか。

帝国より。帝国暦三四七年。カルヴァ。

帝国より。帝国暦三四六年。東の谷。

帝国より。帝国暦三三九年。港の街。

ロズリンは、それを一つずつ写しながら、途中で気づいた。

「帝国より」と書かれた札が、多すぎた。

二百に一つ、ではなかった。十に一つだった。


その夜、火のそばで、ロズリンは帳面を開いた。

『黒の書に載っているのは、三百年で九人です。壁を越えて戻った人』

「知ってる」

『この畑だけで、帝国から来た人が、今日写したぶんで百二十います。二万人なら、二千になります』

マーロウは、火を見ていた。

「…壁を越えたやつだけじゃない、ってことか」

『はい。帝国は、変わった人を、どこかで作っています。オットさんとサムさんが一晩で変わったように』

ドラグが、低く言った。

「壁の番を十四年やっとった。黒の書に書いたのは、自分の目で見た者だけだ。書かんかった者が、それだけおったということだ」

ウィラは、火の反対側で、膝を抱えていた。

ずっと、黙っていた。


火が小さくなってから、ウィラが荷車の陰に来た。

マーロウの隣に座った。いつもより、少しだけ離れて。

『…ねえ』

「なんだ」

『あたしの父さんの話、したことないよね』

マーロウは、ウィラの顔を見た。

三年一緒にいて、母親の話は一度だけ聞いた。五つのときに死んだ。声しか覚えていない。名前も知らない。

父親の話は、一度も聞いたことがなかった。

『牛を売ったあとね。父さん、仕事がなくなって。市場で荷を運んでた。あたしも手伝ってた』

ウィラは、膝の上で指を組んだ。

『次の年の夏に、熱を出して倒れたの。役人が来て、施療所へ運んでいった』

マーロウの背中が、冷たくなった。

『三日後に、また役人が来て、死んだって言った。熱病の死体は、まとめて埋めたって。だから、会えなかった』

同じだった。

一字一句、同じだった。

母さんが熱を出して倒れて、役人が施療所へ運んだ。三日後に、死んだと言いに来た。熱病の死体は、まとめて埋めたと。

母さんは、死んでいなかった。

「…ウィラ」

『マーロウのお母さんの話、聞いたとき、あたし、ずっと考えないようにしてた』

ウィラの声は、震えていなかった。震えないように、押さえていた。

『考えたら、期待しちゃうでしょ。期待して、違ったら、もう一回死んだって言われるみたいなもんじゃん』

マーロウは、何も言えなかった。

『でも、今日、ロズリンさんの帳面、見ちゃった。帝国より、って、いっぱい書いてあった』

ウィラは、膝に顔を埋めた。

『海壁の街から来た人、何人いた?』


翌朝、ロズリンは、写した札を全部見直した。

帝国より。海壁の街。

その札は、今までに写した中に、十一あった。

年は、三四一年から三四八年まで。三四五年は、三つ。

ロズリンは、その三つの杭の場所を、帳面の地図に丸で囲んだ。

「行きますか」

ウィラは、頷いた。

マーロウが、立ち上がった。

『あたし一人で行く』

「行かせない」

『…なんで』

「おまえの父親だったら、おれは、そこにいたい」

ウィラが、マーロウを見上げた。

しばらく、何か言いたそうな顔をしていた。

それから、マーロウの袖を、指で一度だけつまんだ。

『…うん』

ミラベルは、何も言わずに、少し後ろをついてきた。


一つ目の杭の男は、白髪の老人だった。

ウィラは、顔を見て、首を横に振った。

二つ目の杭の女は、若かった。ウィラより少し上くらい。

ウィラは、首を横に振った。振ってから、女の手に、そっと触れた。ごめんね、と小さく言った。

三つ目の杭は、畑の東の、いちばん暗い列にあった。一の輪から、いちばん遠いあたりだった。

男が、寝ていた。

痩せていた。四十を少し過ぎたくらい。赤茶の髪が、半分白くなっていた。鼻の頭に、そばかすがあった。

ウィラの足が、止まった。

止まったまま、動かなかった。

マーロウは、ウィラの横に立った。

男の顔を見た。それから、ウィラの顔を見た。

見なくても、分かった。

ウィラが、その場に膝をついた。

男の顔の前で、両手を、宙に浮かせたまま、止めた。

触れたら、消えてしまうとでもいうように。

『…父さん』

声は、ほとんど出ていなかった。

第四章 了