第三十三章
迎えに行く

塔の朝から二日たって、都の東の野に、溝が一本掘られた。
倒れた塔から、北へ半分ほど行ったところだった。ドンが丸くなっている百歩の縄の、すぐ外側だ。
溝を掘ったのは、オークの兵が十人。溝の中に、ドンのそばから、水を引いた。オークは、生き物を通った水に浸かっても変わらない。
人間は、溝の乾いた側に並んだ。一人も、水には入らない。ハーランの紙に、いちばん大きな字で、そう書いてあった。
並んだ人間の端に、議長がいた。
杖をついて、オルヴァンに肩を借りて。震える手で、種を一粒ずつ、乾いた土に押し込んでいた。
ウィラが、横で数えていた。
「十二。十三。…議長さん、手、震えすぎ。穴、二個あいてる」
『では、二粒入れておけ』
「そういうことじゃないの」
議長は、少しだけ笑った。
笑ったのを、マーロウは初めて見た。
ノエラは、その日も、都の西の通りの、小さな家の前に座っていた。
トビアスが教えた家だった。ルーカスの母親が住んでいる。
塔の朝の翌日から、ノエラは毎朝、そこに座っていた。刃は、腕の中にしまって。ラーナが、少し離れた角で待っていた。
戸は、一度も開かなかった。
三日目の昼、戸の向こうから、声がした。
年を取った女の声だった。
『…いつまで、そこにいるの』
「分かりません」
ノエラは、戸に向かって答えた。
「おかあさんに、言われました。許されることじゃないと。だから、許されるまでではなく、あなたが帰れと言うまで、います」
戸の向こうが、長いこと、静かだった。
『…明日も、来なさい』
それだけだった。戸は、開かなかった。
ノエラは、深く頭を下げた。
角で待っていたラーナが、背中の新しい翼を、少しだけ広げて、また畳んだ。
その夜、提督の家の中庭で、ロズリンは帳面を開いていた。
表紙の裏の、あの欄だった。日付だけが並ぶ欄。書かなかったことの欄。
四十二行目に、読まれた、とある。
ドラグが、向かいに座った。
胸の布は、今朝、ロズリンが巻き直した。紫は、少し薄くなっていた。
「…片づいたな」
『はい』
ロズリンは、筆を持ったまま、顔を上げなかった。
ドラグは、しばらく、空の井戸を見ていた。
それから、言った。
「おまえが帳面を書いとるあいだ、おれは、その横に座っとる。これからも、ずっとだ」
ロズリンの筆が、止まった。
「行かないでくれと、書いてありたかったんだろう。行かん。どこへ行くときも、おまえの帳面ごと連れていく」
ロズリンは、動かなかった。
眼鏡の奥で、目が真っ赤になっていた。
『…それは、記録しても、いいですか』
「好きにしろ」
ロズリンは、四十三行目に、日付を書いた。
その横に、字を一つ書こうとして、手が震えて、書けなかった。
二度目で、書けた。
言われた。
ドラグは、それを覗きこんで、何も言わなかった。言わずに、火が小さくなるまで、ロズリンの横に座っていた。
ロズリンは、今度は、それも書いた。
ケイルは、その夜も、牢へパンを持っていった。
議会は、近衛長の罰をまだ決めていなかった。グレゴールは、同じ牢にいた。
パンは、また二つだった。
夜更け、ニコが、塔の跡から戻ってきた。
地面に手を当てて、長いこと、トンと話していたらしかった。
ニコは、マーロウの前に来て、少し迷ってから、言った。
『トンがね、蓋を閉めた人のこと、覚えてるって』
「ずっと前に、上から閉めたやつか」
『うん。三百年より、少し前』
ニコは、マーロウの手を見た。塔の朝に、瓶のために切った手だ。
『その人、血の人と、同じにおいがしたって』
マーロウは、何も言わなかった。
ミラベルが、隣で、マーロウの袖を握った。
『トン、今度、話したいって。下まで来てほしいって。…すぐじゃなくていいって』
ニコは、少し笑った。
『三百年待ったから、待つのは平気なんだって』
翌朝、荷車の支度をした。
北へ戻る。その前に、畑へ寄る。
一が、待っている。待つ側は慣れた、と言った男が。
ミラベルが、荷台に剣を積みながら言った。
「嬢ちゃん。おじさん、迎えに行こ。今度は、ちゃんと連れて帰るの」
ウィラが、手綱を握った。帳面は、懐に入れてあった。
ロズリンが、新しい頁を開いた。
『出立の記録を書きます。目的は』
ロズリンは、筆を止めて、マーロウを見た。
マーロウは、少し考えた。
「迎えに行く、でいい」
ロズリンは、そのとおりに書いた。
海壁の街を出た朝に、グロムが書いたのと、同じ言葉だった。
荷車が、動きだした。
ミラベルが、御者台の横を歩いていた。左手を、マーロウのほうへ差し出して。
マーロウは、その手を取った。
四本とも、まっすぐだった。
「五日目だ」
『なにが』
「今日も、いた」
ミラベルは、前を向いたまま、耳まで赤くなった。
足の下で、地面が、一度だけ、低く鳴った。
トン。
見送りの音だった。
第三十三章 了
第四巻 了
