海壁
第三巻の終わり 人物相関図
第三巻の終わり 人物相関図

第一章

星を吸う槍

挿絵:星を吸う槍

畑を出て五日目の朝、ニコが荷台から飛び降りた。

赤い土に、両手をついていた。

『吸われてる!』

「何がだ」

『あいつ! 海から来たあいつが、吸われてる!』

マーロウは、ニコの指の先を見た。

南東の地平線に、光の柱が立っていた。

昼なのに、星が見えた。水でできた巨人の体の中を、星が流れていた。

その上に、黒い空船が三隻、浮いていた。

三隻とも、腹から鎖で台を吊っていた。台の上で、先の回る槍が巨人の肩に刺さっていた。槍が回るたびに、星が上へ吸い上げられていく。星の抜けた水は、船の腹から滝になって捨てられていた。

『半分になってる。痛いって。ずっと痛いって』

ニコの声が、裏返った。

荷台の後ろで、ケイルが身を起こした。

『…去年、おれがおまえたちの海でやろうとしたことだ』

「止め方は」

『台を吊っとる鎖だ。去年も、あれを切られた』


ミラベルが、御者台の横で足を止めた。

左手を開いて、閉じた。指は四本とも、ほとんどまっすぐだった。

『坊や』

「分かってる」

『まだ何も言ってない』

「行くんだろ」

『行く。でも、その前に』

ミラベルは、御者台に片足をかけて、顔を寄せた。

『キスして』

「今か」

『今。行ってきますのやつ。無いと走れない』

マーロウは、ため息を一つついて、口をつけた。短く。

ミラベルは、にっと笑った。

『好き。大好き。行ってくる』

「さっさと行け」

ミラベルが背を向けた。

その背中に、マーロウは言った。

「…戻ったら、左手を見せろ。指が全部まっすぐになったか、おれが数える」

ミラベルは、振り向かなかった。

振り向かないまま、耳まで赤くして、走り出した。

赤い土が、一歩も滑らなかった。背中は、見る間に小さくなった。

『行ってきますのやつって、何』とウィラが言った。手綱を握ったまま、眉を寄せていた。

「知らん」

『知らないのにしたの?』

「前を見て走れ」


荷車を南東へ向けた。道から外れる。

マーロウは、御者台の上に立って、光の柱を見続けた。

小さな点が、巨人の足元に着いた。

点は、鎖に跳びついて、駆け上がった。

光が一度、横に走った。

一つ目の台が、槍ごと落ちた。

船が傾いた。傾いた甲板から、点が隣の船へ跳んだ。何も踏まずに、空を渡った。

二つ目が落ちた。

三隻目は、逃げようとして船首を回した。回しきる前に、三つ目が落ちた。

『十八』とロズリンが言った。

「何がだ」

『三つとも落ちるまで、十八を数えました』

ロズリンは、帳面を開いたまま、字を書けずにいた。

マーロウは、七隻の日を思い出した。あのときのミラベルは、曲がった指で、刃がぶれていた。ぶれながら、一本ずつ断っていた。

「指が戻ったからだ」

そう言いながら、自分の声が少し得意げなのに気づいて、マーロウは口を閉じた。

荷台で、ニコが縁を握りしめていた。

『…痛いの、止まった』

それだけ言って、泣き出した。ウィラが手綱を片手に持ちかえて、もう片方の腕でニコの頭を抱えた。


二隻は、都のほうへ逃げていった。

一隻だけが、残った。いちばん大きな船だった。帆に、グリフォンの羽根の模様が描いてあった。

ケイルが、低い声で言った。

『提督の船だ』

「あの赤い髪か」

『そうだ。おれが甲板から叩き出した女だ』

船は、逃げなかった。ゆっくりと高さを下げて、巨人から離れた乾いた地面に降りた。

ミラベルが、その前に立っていた。


荷車が着いたのは、日が傾いてからだった。

濡れた地面の手前で、荷車を止めた。巨人から捨てられた水は、生き物を通った水だ。ウィラとロズリンは、乾いた側から降りない。ニコだけが、濡れた地面を走って巨人のほうへ行った。筒を毎日飲んでいるから平気だ、と本人は言っている。

船の前に、背の高い女が立っていた。

短い赤い髪。銀の鎧。左目のまわりに、グリフォンの羽根の模様。縦に細い瞳が、荷車の人数を数えていた。

ヴァレリア・コルト。共和国の都の提督だった。

荷台では、双子のヨルンとユランが、背中合わせのまま黙っていた。二人とも、顔をこわばらせていた。

ミラベルの刃が、提督の喉から指一本のところで止まっていた。

『坊や、この人、坊やと話したいんだって』

「斬ってないのか」

『決めるのは坊やでしょ。だから、坊やが来るまで、こうしてた』

「…よく我慢したな」

提督は、刃を見もしなかった。マーロウだけを見ていた。

『神の血だな』

「だったら何だ」

『取引をしたい。今日、決めた』

提督は、空を指した。

『台三つを、十八数えるうちに落とされた。数をやり直した。この女は、数でどうにかなるものではない』

「あいつを吸ってた理由は」

『あれが地面を叩くたびに、都の井戸が一本枯れる。この十日で七本だ』

提督は、巨人を見ずに言った。

『だが、今日の用件は別だ』

「言え」

『都の刃が二本、逃げた。技師を殺した二本だ』

ミラベルの刃が、わずかに揺れた。

『昨夜、そのうちの一本が、都の南の作業場を壊した。働いていた者の半分が、行方知れずだ』

提督は、ようやく、ミラベルの刃を目だけで見下ろした。

『刃を止められるのは、刃だけだ。その刃を貸せ。代わりに、都の門を開けてやる』

荷台で、ケイルが息を呑んだ。

マーロウは、ドラグの手紙を思い出していた。

都の外の、南の作業場。

シビルの妹が、そこにいるらしい。

ドラグとシビルは、そこを探しているはずだった。

第一章 了