
第一章
星を吸う槍

畑を出て五日目の朝、ニコが荷台から飛び降りた。
赤い土に、両手をついていた。
『吸われてる!』
「何がだ」
『あいつ! 海から来たあいつが、吸われてる!』
マーロウは、ニコの指の先を見た。
南東の地平線に、光の柱が立っていた。
昼なのに、星が見えた。水でできた巨人の体の中を、星が流れていた。
その上に、黒い空船が三隻、浮いていた。
三隻とも、腹から鎖で台を吊っていた。台の上で、先の回る槍が巨人の肩に刺さっていた。槍が回るたびに、星が上へ吸い上げられていく。星の抜けた水は、船の腹から滝になって捨てられていた。
『半分になってる。痛いって。ずっと痛いって』
ニコの声が、裏返った。
荷台の後ろで、ケイルが身を起こした。
『…去年、おれがおまえたちの海でやろうとしたことだ』
「止め方は」
『台を吊っとる鎖だ。去年も、あれを切られた』
ミラベルが、御者台の横で足を止めた。
左手を開いて、閉じた。指は四本とも、ほとんどまっすぐだった。
『坊や』
「分かってる」
『まだ何も言ってない』
「行くんだろ」
『行く。でも、その前に』
ミラベルは、御者台に片足をかけて、顔を寄せた。
『キスして』
「今か」
『今。行ってきますのやつ。無いと走れない』
マーロウは、ため息を一つついて、口をつけた。短く。
ミラベルは、にっと笑った。
『好き。大好き。行ってくる』
「さっさと行け」
ミラベルが背を向けた。
その背中に、マーロウは言った。
「…戻ったら、左手を見せろ。指が全部まっすぐになったか、おれが数える」
ミラベルは、振り向かなかった。
振り向かないまま、耳まで赤くして、走り出した。
赤い土が、一歩も滑らなかった。背中は、見る間に小さくなった。
『行ってきますのやつって、何』とウィラが言った。手綱を握ったまま、眉を寄せていた。
「知らん」
『知らないのにしたの?』
「前を見て走れ」
荷車を南東へ向けた。道から外れる。
マーロウは、御者台の上に立って、光の柱を見続けた。
小さな点が、巨人の足元に着いた。
点は、鎖に跳びついて、駆け上がった。
光が一度、横に走った。
一つ目の台が、槍ごと落ちた。
船が傾いた。傾いた甲板から、点が隣の船へ跳んだ。何も踏まずに、空を渡った。
二つ目が落ちた。
三隻目は、逃げようとして船首を回した。回しきる前に、三つ目が落ちた。
『十八』とロズリンが言った。
「何がだ」
『三つとも落ちるまで、十八を数えました』
ロズリンは、帳面を開いたまま、字を書けずにいた。
マーロウは、七隻の日を思い出した。あのときのミラベルは、曲がった指で、刃がぶれていた。ぶれながら、一本ずつ断っていた。
「指が戻ったからだ」
そう言いながら、自分の声が少し得意げなのに気づいて、マーロウは口を閉じた。
荷台で、ニコが縁を握りしめていた。
『…痛いの、止まった』
それだけ言って、泣き出した。ウィラが手綱を片手に持ちかえて、もう片方の腕でニコの頭を抱えた。
二隻は、都のほうへ逃げていった。
一隻だけが、残った。いちばん大きな船だった。帆に、グリフォンの羽根の模様が描いてあった。
ケイルが、低い声で言った。
『提督の船だ』
「あの赤い髪か」
『そうだ。おれが甲板から叩き出した女だ』
船は、逃げなかった。ゆっくりと高さを下げて、巨人から離れた乾いた地面に降りた。
ミラベルが、その前に立っていた。
荷車が着いたのは、日が傾いてからだった。
濡れた地面の手前で、荷車を止めた。巨人から捨てられた水は、生き物を通った水だ。ウィラとロズリンは、乾いた側から降りない。ニコだけが、濡れた地面を走って巨人のほうへ行った。筒を毎日飲んでいるから平気だ、と本人は言っている。
船の前に、背の高い女が立っていた。
短い赤い髪。銀の鎧。左目のまわりに、グリフォンの羽根の模様。縦に細い瞳が、荷車の人数を数えていた。
ヴァレリア・コルト。共和国の都の提督だった。
荷台では、双子のヨルンとユランが、背中合わせのまま黙っていた。二人とも、顔をこわばらせていた。
ミラベルの刃が、提督の喉から指一本のところで止まっていた。
『坊や、この人、坊やと話したいんだって』
「斬ってないのか」
『決めるのは坊やでしょ。だから、坊やが来るまで、こうしてた』
「…よく我慢したな」
提督は、刃を見もしなかった。マーロウだけを見ていた。
『神の血だな』
「だったら何だ」
『取引をしたい。今日、決めた』
提督は、空を指した。
『台三つを、十八数えるうちに落とされた。数をやり直した。この女は、数でどうにかなるものではない』
「あいつを吸ってた理由は」
『あれが地面を叩くたびに、都の井戸が一本枯れる。この十日で七本だ』
提督は、巨人を見ずに言った。
『だが、今日の用件は別だ』
「言え」
『都の刃が二本、逃げた。技師を殺した二本だ』
ミラベルの刃が、わずかに揺れた。
『昨夜、そのうちの一本が、都の南の作業場を壊した。働いていた者の半分が、行方知れずだ』
提督は、ようやく、ミラベルの刃を目だけで見下ろした。
『刃を止められるのは、刃だけだ。その刃を貸せ。代わりに、都の門を開けてやる』
荷台で、ケイルが息を呑んだ。
マーロウは、ドラグの手紙を思い出していた。
都の外の、南の作業場。
シビルの妹が、そこにいるらしい。
ドラグとシビルは、そこを探しているはずだった。
第一章 了