第十章
二つ目の取引

提督の部屋の壁は、数字で埋まっていた。
白い石の粉で、壁いっぱいに書いてある。井戸の番号。日付。深さ。消した跡の上に、また書いた跡があった。
『座れ』
「立ってる」
『好きにしろ』
提督は、壁の一か所を指で叩いた。
『議会が欲しいのは、都の下の海だ』
「水か」
『水と、下にいるものだ。粒を水に戻すもの。それと、おまえだ』
「おれ」
『神の血は水を粒にする。下のものは粒を水にする。両方を手元に置けば、燃料と水が両方回る。本部が、そう議会に売った』
マーロウは、壁の声を思い出していた。あなたたちが三日で証明した数字は、私が共和国に売りました。あの機械は、そう言った。
『議会の命令は、神の血を連れて帰ることだ。生きたまま』
「で、なんで連れて帰らない」
『数が合わないからだ』
提督は、壁の数字を上から下へなぞった。
『井戸が枯れる速さは、あれが叩くたびに上がる。叩くのは、下のものが返事をするからだ。下のものは、掘るのを嫌がって怒っている。蓋を割れば、怒っているものが、都の真下で目を覚ます』
「だから、やめろと議会に言えばいい」
『言った。三度』
提督は、指を止めた。
『議会は数を読まない。読むのは、水が出るという話だけだ』
「北の船の話をしろ」
『五隻に、刃が二本乗っている』
マーロウは、眉を寄せた。
「刃は四本だろ。全部、止めた」
『都が作った四本は、な。それとは別だ』
提督は、壁の端に書いた二つの丸を叩いた。
『本部から部品を買って、組んだ二本だ。腹は減らない。暴れもしない。言われたとおりに動く』
マーロウは、去年、硝子の板で読んだ四行を思い出した。共和国の注文、六本。うち二本は、本日、部品を出荷した。
「その二本は、どこが錆びない金属だ」
『全部だ。腕だけではない。体の、全部が』
マーロウの背中が、冷たくなった。
ミラベルの刃は、錆びない金属を切れない。将軍の脚で弾かれた。白い髪の刃の腕でも弾かれた。
全身がその金属なら、つなぎ目もない。
「切れるのは、剣だけか」
『そうだ。その剣を、刃が取りに行く』
『取引だ』
提督は、壁から離れた。
『私の船は、あの五隻より速い。四日で北に着く。五隻より、一日早い』
「船を貸すのか」
『貸す。私は乗らない。都に戻って、議会の前に立つ』
「議会に逆らうことになるぞ」
『数が合わないときは、いつも逆らってきた。だから、提督で止まっている』
マーロウは、少しだけ笑いそうになって、やめた。
「代価は」
『明後日の夕方、巨人の三日が終わる』
提督は、指を二本立てた。
『それまでに、あの子どもに、下のものと話をさせろ。下のものが何を嫌がって怒っているのか、知りたい。数を出すには、それが要る』
「それだけか」
『もう一つ。都の中では、私のそばを離れるな。議会は、おまえを欲しがっている』
マーロウは、壁の数字を見た。一つも読めなかった。読めなかったが、この女がこれを一人で書き続けてきたことは分かった。
「船に誰を乗せるかは、おれたちが決める」
『好きにしろ。夜明けに出す』
火のそばに戻ると、全員が起きて待っていた。
マーロウは、聞いてきたことを、そのまま話した。
話し終わる前に、ミラベルが立ち上がった。
『あたしが行く』
「…だろうな」
『本物が二本でしょ。ベルじゃ無理。あたしも、切れないけど』
ミラベルは、左手を開いて、閉じた。
『剣がある。ガルドのおじさんのとこに。あれなら切れる』
「剣を守りに行って、剣で戦うのか」
『そう。変?』
「変じゃない」
マーロウは、火を見た。
「変じゃないから、困ってる」
ウィラが、立ち上がった。
『あたしも行く』
「だめだ」
『あたしの街だもん』
「だめだ」
『ベルに、朝の列の数え方を教えたの、あたしだもん。ガスがどこで縄を引くかも、ミアがどこで泣くかも、あたし知ってる』
「泣く場所まで知っててどうする」
『泣いてる人がいたら、そこに行くの』
マーロウは、黙った。
ミラベルが、ウィラの肩に、金属の手を置いた。
『嬢ちゃんは、あたしが守る』
「…おまえ、自分で言ったよな。一人で決めるのはなしだって」
『言った』
「なら、今は、おれが一人で決めたらいけない」
マーロウは、火のまわりを見た。
ロズリンが、小さく頷いた。ドラグは、黙って腕を組んでいた。ニコは、ウィラの袖をつかんでいた。
ケイルが、低い声で言った。
『行かせてやれ。待つ側のほうが、きついこともある』
マーロウは、長いこと黙っていた。
それから、ウィラの頭に手を置いた。
八度目だった。
「行け。二人とも」
ウィラの顔が、くしゃっと崩れた。
「その代わり、帰ってこい。二人とも、ちゃんと」
第十章 了