海壁

第二十章

返す剣

挿絵:返す剣

街の者は、一人も死ななかった。

怪我人は、四十人を超えた。ヴェスタの店の前に、列ができた。ヴェスタは、根を噛んだまま、朝から晩まで縫い続けた。

ガルドの背中は、十八針だった。

ベルの脇腹は、ベル自身が「損傷、軽微です」と言い張って、縫わせなかった。ヴェスタが根を吐いて「軽微かどうかは、わしが決める」と言うと、黙って座った。

ミラベルは、太腿と肩を縫われた。

『痛い?』とウィラが訊いた。

「痛くない。ちょっと、くすぐったい」

ヴェスタが、針を止めた。

『動くな。くすぐったいなら、笑うのは縫い終わってからにしろ』

ミラベルは、口を押さえて、肩を震わせた。


夕方、ミラベルは、東門の小屋へ行った。

ガルドが、うつ伏せに寝台に寝ていた。背中の縫い目が、ランプの光で黒く光っていた。

ミラベルは、名前のない剣を、寝台の横に立てかけた。

「返す」

ガルドは、顔だけ動かして、剣を見た。

長いこと、見ていた。

『…持っていけ』

「え」

『南へ、持っていけ』

「だって、おじさん、前に言ったじゃん。役に立つかもしれないものは、たいてい奪われるって。道中で奪われたら、鍵を敵に届けることになるって」

『言った』

ガルドは、寝台の上で、左手を動かした。剣の柄に、指先が触れた。

『ここに置いても、船はまた来る。今日、分かった。どこに置いても、奪いに来る』

「だから」

『だから、奪えない者が持つほうがいい』

ガルドは、ミラベルを見上げた。

『今日、おまえから剣を奪えた者は、一人もおらん』

ミラベルは、何も言えなかった。

ガルドは、続けた。

『それに、本部は、この剣を刃を止めるために作ったと言った。南には、まだ刃がおるんだろう』

「…いる。腕も刃もある子が、一人」

『なら、この剣の仕事は、南にある』


ミラベルは、剣を手に取った。

重かった。朝より、少しだけ軽く感じた。

「…止めるだけに使う。切らなくていいものは、切らない」

『それでいい』

ガルドは、また顔を枕に埋めた。

『四十年、剣を振ってきた。振らずに済ませたことは、一度もない』

くぐもった声だった。

『おまえは、やってみろ』


その夜、ミラベルとベルは、壁の上にいた。

海は、暗かった。星は、もう浮いていなかった。

「ねえ、ベル。あたし、九日で戻るって約束したの」

『はい』

「着いたのが五日目。戦ったのが六日目。明日の朝出て、四日で着いたら、十一日目」

ミラベルは、指を折った。まっすぐになった四本の指で。

「二日、遅れる」

『はい』

「坊や、十日目は数えないって言ったの。十日目を数えなかったら、どうなるの。数えるのやめちゃうの?」

ベルは、しばらく考えた。

『一〇六番は、言ったことをします』

「だから怖いんじゃん!」

『ですが、一〇六番は、数え方を変えることもします』

ベルは、首を傾げた。

『三日の証明のとき、数え方を変えて、本部に勝ちました』

ミラベルは、ぽかんとして、ベルを見た。

それから、笑い出した。笑いながら、ベルの肩に頭を乗せた。

「…ベル、それ、慰めてる?」

『分かりません。ですが、あなたの胸の内側が軽くなるなら、そういうことにします』

ミラベルは、ベルの肩に頭を乗せたまま言った。

「ベル。今夜、納屋で一緒に寝て」

『私は、岩の上で足ります』

「足りないの。あたしが。坊やの場所、空いてるから」

ベルは、しばらく考えた。

『…では、一〇六番の場所に、仮に入ります』

その夜、納屋の藁の上に、同じ顔が二つ並んだ。

ベルは、朝まで一度も寝返りを打たなかった。ミラベルは、何度も打って、そのたびにベルの腕にぶつかった。


夜明けに、提督の船の下へ光の柱が落ちた。

見送りは、また多かった。ガスが、泣きながら杏の袋を押しつけた。ミアは、ウィラの帳面の最後の頁に、自分の名前を書いた。ヴェスタは、ウィラの肩を見て「縫うのは帰ってからだ」とだけ言った。

ガルドは、うつ伏せのまま、小屋の窓から左手を振った。

ミラベルは、剣を背中に縛りつけていた。

光の柱に入る直前、サイラスが走ってきた。眼鏡がずれて、息が切れていた。

『お待ちください。本部から、報せでございます』

サイラスは、硝子の板を差し出した。白い字が、三行、浮かんでいた。

ミラベルは、読んだ。

ウィラも、横から読んだ。

共和国の議会より、問い合わせ。

蓋を、剣を使わずに開ける方法。

回答しました。

ウィラの顔から、色が抜けた。

「…いつ」

『昨夜でございます』

ミラベルは、板をサイラスに返した。

背中の剣の重さを、確かめるように、一度だけ肩を揺すった。

「行こ、嬢ちゃん。急ぐよ」

光の柱が、二人を持ち上げた。

船が、南へ向きを変えた。

ミラベルは、船首に立って、指を折った。

七日目。

第二十章 了