第十一章
行ってきますのやつ

夜明けの少し前、ミラベルは、荷車の陰で、マーロウと一枚の毛布にくるまっていた。
眠ってはいなかった。マーロウの胸に、頬を押しつけていた。
『ためてるの』
「何をだ」
『坊や。帰るまでのぶん。くっついて、ためとくの』
「ためられるのか、そんなもの」
『ためられるよ。あたし、粒で動いてるんだから。ためるのは得意なの』
マーロウは、毛布の上から、その背中に腕を回した。
しばらく、何も言わなかった。
「…足りなくなったら、早く帰ってこい」
ミラベルは、返事をしなかった。代わりに、腕に力を入れた。痛いくらいに。
東の空が、白くなりはじめていた。
夜明けに、提督の船の下へ光の柱が落ちた。
北へ行くのは、二人。ミラベルとウィラ。
ミラが、ミラベルの服の裾を噛んで、放さなかった。
『行く』
「だめ。お留守番」
『行く』
「だめ」
ミラベルは、しゃがんで、ミラの額に自分の額をつけた。
「坊やを見てて。ずっと。それが、あんたの仕事」
ミラは、しばらく黙っていた。
それから、裾を放した。
『見てる』
そう言って、マーロウのほうを向いた。金属の目が、まっすぐマーロウに据わった。瞬きはしたが、目はそらさなかった。
マーロウは、居心地が悪くなって、横を向いた。ミラの首も、同じだけ横を向いた。
ブリンが、腹を抱えて笑った。
ロズリンが、ウィラに小さな帳面を渡した。
『街で起きたことを、書いてください。私の代わりに』
「あたし、ロズリンさんみたいに書けないよ」
『字は、私が教えました。書けます』
ロズリンは、帳面の最初の頁を開いて、指で押さえた。
『日付だけは、必ず帝国暦で。何日前、とは書かないでください。読む人が、いつ読むか分かりませんので』
「分かってる。耳にたこだもん」
ウィラは、帳面を胸に抱えた。
ピオとリラは、トビアスの横に並んで座っていた。二人とも、何を見送っているのか分かっていない顔で、それでも手の代わりに首を振っていた。
ニコが、荷車の縁から、ウィラの袖を引いた。
『ウィラ』
「なに」
『ミアに、よろしく』
「自分で言いなよ。帰ってきてから」
ウィラは、ニコの帯の筒を指でつついた。
「一日一口。忘れたら、ミアに言いつけるからね。あたしがいなくても、マーロウが見てるから」
『マーロウ、叱らないよ』
「叱らなくても、見てる。見られてると、ちゃんとやるでしょ、ニコは」
ニコは、口をとがらせた。それから、小さく頷いた。
ミラベルが、マーロウの前に立った。
『キスして』
「行ってきますのやつか」
『うん。あと、もう一個』
「なんだ」
『触らないでね。誰にも。あたしがいないあいだ』
「誰が触るんだ」
『ノエラとか。ミラとか。提督とか』
「提督はない」
『ないって、言い切れる?』
「言い切れる」
ミラベルは、にっと笑った。笑ったまま、目が少し赤かった。
マーロウは、口をつけた。いつもより、少しだけ長く。
離れてから、言った。
「四日で着いて、一日で片づけて、四日で戻れ」
『九日?』
「九日だ。九日なら、数えられる」
ミラベルの目が、大きくなった。
『…数えてくれるの?』
「数える。毎日、今日もいなかった、って数える。十日目は数えない。だから九日で戻れ」
ミラベルは、何か言おうとして、言えなかった。
代わりに、マーロウの胸に額を打ちつけた。二度。三度。
『好き。大好き。愛してる。九日で戻る』
ウィラは、最後まで泣かなかった。
光の柱に入る前に、マーロウの前で止まった。
「ベルに言っとけ。灯りが全部点いてるか、あとで訊くって」
『うん』
「ガルドに言っとけ。剣は、奪われるくらいなら折れって」
『うん』
「ガスには何も言わなくていい。どうせ三回、同じ話をする」
ウィラが、笑った。
笑った拍子に、一粒だけ、涙が落ちた。
『行ってきます』
「行ってこい」
光の柱が、二人を持ち上げた。
船が、北へ向きを変えた。甲板の縁で、ミラベルが大きく手を振っていた。ウィラは帳面を抱えたまま、まっすぐこちらを見ていた。
船は、見る間に小さくなった。
マーロウは、空を見上げたまま、声に出さずに数えた。
一日目。
残った者は、荷車で都へ向かった。
提督も、荷車に乗った。御者台の横に、背筋を伸ばして座った。
「提督が荷車に乗るのは、初めて見た」とケイルが言った。
『私も、初めて乗る』
提督は、まっすぐ前を見ていた。
荷台では、ミラがマーロウの横に座って、マーロウを見ていた。ずっと見ていた。
ニコが、地面を見ながら言った。
『あと、一日半』
都の門は、昼過ぎに見えた。
三重の壁の、いちばん外側。門の上に、グリフォンの羽根の模様の旗が並んでいた。
門番は、グリフォンを連れた兵が四人。荷車を止めて、中を覗いた。
一人が、ケイルの顔を見て、息を呑んだ。
『…ケイル将軍』
次の瞬間、四人の銃口が、いっせいにケイルを向いた。
『死んだ将軍だ! 死んだ将軍が門に来た!』
提督が、御者台から降りた。
『死んだ男は、撃っても死なん。弾の無駄だ。通せ』
門番たちは、顔を見合わせた。
それから、銃口を下げた。
荷台で、ケイルが小さく言った。
『…助かった、のか』
「助かったんだ、兄貴」とドラグが言った。
『…助けられた気がせん』
門をくぐると、石の通りがまっすぐ延びていた。
人が多かった。オーク。ゴブリン。人間。ときどき、荷を背負ったグリフォンが通った。
通りの角ごとに、井戸があった。
井戸の前に、桶を持った列ができていた。一つの井戸に、百人は並んでいた。
その横の井戸には、誰も並んでいなかった。縄が、途中で切れて垂れていた。
「枯れた井戸か」
『今月だけで、十一本目だ』と提督が言った。『あれが待ちはじめてからは、一本も枯れとらん。それでも、列は減らん』
提督の家は、二つ目の壁の内側にあった。
門の前に、兵が一人、紙を持って立っていた。
『議会より』
兵は、紙を読み上げた。
『神の血を、明後日の朝、議場へ連れてくること』
提督は、紙を受け取って、畳んだ。
『明後日だ』
それから、マーロウを振り返った。
『明日は、東の塔へ行く』
第十一章 了