海壁

第六章

名前をあげる

挿絵:名前をあげる

「あんたの名前は、ミラ」

白い女の金属の目が、また瞬いた。

「あたしの名前は、ミラベル。爺さんがくれたの。前に、妹みたいな子に、後ろの半分をあげた。ベルって。前の半分は、あたしが持ってた。ミラ」

ミラベルは、刃を肩のつなぎ目に当てたまま、言った。

「それを、あんたにあげる。名字もつける。グリム。爺さんの名字。ミラ・グリム」

『…ミラ』

「そう」

『ミラ・グリム』

白い女は、もう一度、口の中で言った。

『ミラ・グリム』

ミラベルが、泣きそうな顔で笑った。

「二回言ったね。自分で」


「約束したから、壊すよ」

ミラベルは、静かに言った。

「刃は、壊す。あんたは、壊さない」

刃を、押し込んだ。右肩のつなぎ目。

それから、左肩。

金属の腕が二本、砂の上に落ちた。光を返さない刃が、腕の中へ引っこんで、二度と伸びなかった。

ミラは、声を上げなかった。腕のなくなった肩を見て、それからミラベルを見た。

つなぎ目から漏れていた光が、消えていた。

「…漏れが、止まった」とマーロウは言った。

『漏れてたの、つなぎ目からだったんだ』

ミラベルは、ミラの頭を膝に乗せた。

『坊や。粒、一つちょうだい』

「食ったら、速くなるんだろ」

『もう、腕がないもん』

マーロウは、腰の袋を開けた。一が畑で、毎日ひとつずつ取っておいた粒だった。

一つ、ミラベルの手に落とした。

ミラベルは、それをミラの口もとへ持っていった。

「口、開けて」

ミラが、口を開けた。粒を含んで、目を閉じた。

しばらくして、小さな声がした。

『…おなか、すいてない』

ミラベルは、ミラの額に手を置いた。そのまま、しばらく動かなかった。

マーロウは、その横に膝をついた。

「名前が先だったな」

『うん。順番、守った』


瓦礫の山から、ドラグが這い出してきた。胸を押さえて、唸った。

『生きてるかい、全員!』とブリンが怒鳴った。

あちこちから、返事がした。

ボロが、南の丘へ向かって吠えはじめた。

一度、二度。尾を振りながら。

丘の上に、人が並んでいた。

十人。二十人。まだ増える。灰色の作業着の列が、丘を越えて、こちらへ下りてきた。

先頭に、四つ足の獣がいた。

翼はなかった。背中の肩甲骨のあたりに、傷跡が二つあった。濃い茶色の毛並み。金色の目。シビルより、ひと回り小さかった。

その横を、女が一人、歩いていた。

短く切った黒い髪。首に、粗く織った布を巻いていた。両腕とも、肩から先が錆びない金属だった。その腕に、足を怪我したゴブリンの子を抱えていた。

顔は、ミラベルだった。


シビルが、走った。

マーロウは、シビルが走るのを初めて見た。四本の足が、瓦礫を蹴って、丘を駆け上がった。

獣が、立ち止まった。

「…姉さん」

『ラーナ』

シビルの声が、崩れていた。いつもの、少しも崩れない声ではなかった。

二頭の獣は、額を押しつけ合った。長いこと、そうしていた。

「翼、ないんだね。姉さんも」

『あります』

シビルは、丘の下を振り返った。

ドラグが、胸を押さえたまま、麻の包みを抱えて上がってきた。包みを、ラーナの前に下ろした。

灰白色の翼が、二枚。

『姉妹の翼なら、あなたの背中に合います』

「…姉さんのでしょ、これ」

『私は、歩くのに背中を使いません』

ラーナは、翼に鼻先を寄せた。

それから、声を上げて泣いた。シビルは、泣かなかった。泣かずに、妹の背中の傷跡に、そっと顎を乗せていた。


短い髪の女が、ゴブリンの子を列の者に渡して、ミラベルの前に来た。

膝の上のミラを見た。落ちている二本の腕を見た。

それから、ミラベルの顔を見た。

「あなたが、最初の刃ですか」

丁寧な声だった。

『そうだよ』

「私は、ノエラです。ノエラ・オーヴェイン」

ミラベルの目が、大きくなった。

丘の上から、ラーナが言った。

『その子の名前は、私がつけた。試しの部屋の掃除をしてたとき、毎日、話しかけてたの。そしたら、覚えちゃって』

ノエラは、ラーナを振り返った。

「おかあさん」

『おかあさんじゃないって、何度言ったら分かるの』

「分かっています。ですが、やめません」

ラーナは、濡れた顔で、困ったように笑った。

ノエラは、ミラベルに向き直った。

「私は、技師を一人、殺しました。おかあさんを叩いた人です。止め方を、ほかに知りませんでした」

ラーナの声が、丘の上から落ちてきた。

『それは、許されることじゃない。この子にも、そう言った。毎日、言ってる』

ミラベルは、しばらく黙っていた。

それから、ノエラに訊いた。

『名前、毎朝、呼ばれてる?』

「毎朝です」

ミラベルは、両手で顔を覆った。金属の手も、そうでないほうの手も。

覆ったまま、笑っていた。

『…よかった』


そのとき、足の下が鳴った。

地鳴りではなかった。叩く音だった。

一つ。二つ。三つ。

瓦礫の下の、もっと下から。

ミラが、ミラベルの膝の上で目を開けた。ノエラが、地面を見た。二人とも、同じ角度で首を傾けていた。

「下の二人が、起きました」とノエラが言った。

北の空から、提督の船が、高さを下げてきていた。

第六章 了