海壁

第四章

崩れた作業場

挿絵:崩れた作業場

船が降りきる前に、犬が瓦礫を駆けてきた。

ボロだった。

ウィラが、荷車から飛び降りた。ボロは、ウィラの胸に前脚をかけて、顔じゅうを舐めた。

「ボロ! ボロだ! なんでいるの!」

『あっはっは! 空から来たよ、この連中!』

ブリンが、笑いながら歩いてきた。利かない左腕は、だらりと下げたままだった。

『来ると思ってたよ、あんたは』

「来た」

『提督の船でかい。よりによって』

「よりによってだ」

ブリンは、また腹を抱えて笑った。


ドラグが、焚き火の横から歩いてきた。

見上げるほどの体が、荷車の前で止まった。荷台から、ケイルが降りた。兄弟は、しばらく黙って向き合った。

「…兄貴」

『聞いたか。おれは、死んどるそうだ』

「都で聞いた。葬式に出る暇がなかった」

『出んでいい。棺は空だ』

ドラグは、兄の肩を一度だけ叩いた。強く。ケイルの体が、少しよろけた。

ドラグの目が、兄の袖で止まった。

「…袖、短いな」

『おまえの上着だ』

「知っとる」

それから、ドラグは荷車の横へ行った。

ロズリンが、帳面を胸に抱えて立っていた。

「手紙、読んだ」

『はい』

「短かったな」

『長く書くと、待っている人みたいだからです』

「…下の一行も、読んだ」

ロズリンの眼鏡の奥で、目が一度だけ揺れた。

『あれは、ウィラさんが書きました』

「知っとる。字が違う」

ドラグは、少し黙った。

「おまえは、待っとらんかったのか」

ロズリンは、帳面を抱く腕に力を入れた。

『…待っていました』

それだけ言って、下を向いた。ドラグは、何も言わなかった。言わずに、帳面の角が折れているのを、太い指で伸ばした。


瓦礫の陰から、シビルが歩いてきた。金色の目が、朝の光で細くなっていた。

『おはようございます、マーロウ・ケイン』

「寝てないな」

『二日、寝ていません。知らないことが増えましたので』

焚き火のまわりに、人が座っていた。擦り傷だらけの人間と、ゴブリンと、翼のない獣たち。みんな、同じ灰色の作業着を着ていた。

「何人いる」とマーロウはドラグに訊いた。

『六十一人だ。ここで働いとったのは百二十人。おれたちが着いたのは昨日の朝で、瓦礫の中にこれだけおった。怪我人が十四人。死んだ者は、おらん』

「いない?」

『一人もだ』

ドラグの横で、痩せた男が立ち上がった。

禿げた頭に、煤がついていた。右の耳が半分ない。灰色の目は疲れていたが、濁ってはいなかった。トビアス・レンク、と名乗った。作業場の仕事頭だという。マーロウは、この男の話なら信じてよさそうだと思った。

『夜中に、屋根が割れた』

トビアスは、割れた屋根を指した。

『白い髪の女が、蔵の扉を引きちぎって、粒を食った。手で掴んで、口に入れて。袋ごとだ』

「それから」

『もう一人、来た。同じ顔の女だ。髪が短くて、首に布を巻いてた』

マーロウの横で、ミラベルが息を止めた。

「二人いたのか」

『二人だ。提督の兵は一人と書いただろうがな。あいつらは、朝まで来なかった。見てないんだ』

トビアスは、南の丘を見た。

『短い髪のほうが、寝床の連中を両脇に抱えて、外へ運んだ。何度も。南へだ。白いほうは、それを追いかけては蔵に戻って、また食った。夜明けに、どっちもいなくなった』

「運ばれたのが、残りの五十九人か」

『数えてはいない。半分だ』


シビルが、瓦礫の奥を振り返った。

『ラーナは、ここにいました』

「確かか」

『寝床の柱に、紐が結んでありました。私たちの山の結び方です。父が教えました。知っているのは、もう、私と妹だけです』

トビアスが、シビルを見た。

「ラーナってのは、背中に傷のある、四つ足の女か」

シビルの尾が、止まった。

『…はい』

「短い髪の刃は、あの女の名前を呼んでた。運ぶ前に。ラーナ、ラーナって、何度も」

シビルの瞬きが、止まった。

ミラベルが、トビアスの前に出た。

「名前、呼んでたの?」

『呼んでた』

「刃が? 番号しか、ないはずの子が?」

『そうだ。あんたと同じ顔でな』

ミラベルは、何も言わなかった。左手を、胸の前で握りしめていた。


『ボロがね、昨日からずっと南に吠えるんだよ』

ブリンが、足元の犬を顎で指した。

『匂いは残ってる。だけど、あたしらだけじゃ追えなかった。刃がうろついてるかもしれない場所に、怪我人のいる六十一人を置いていけないだろ』

「今は、置いていける」

マーロウは、荷台を振り返った。

「ここに残るのと、追うのを分ける。ケイルとヨルンとユランは、ここの連中を」

言い終わる前に、ユランが叫んだ。

後ろを向いているほうの、ユランだった。

『後ろだ!』


瓦礫の上に、白い影が降りた。

音がしなかった。砂も、滑らなかった。

女だった。白い髪が、腰まであった。両方の目が、色のない磨いた金属だった。両腕とも、肩から先が錆びない金属だった。

顔は、ミラベルだった。

女は、首を傾けた。ミラベルと同じ角度で。

それから、まっすぐ、マーロウの腰の袋を見た。一から預かった、三百粒の袋を。

『粒の、においがする』

抑揚のない声だった。子どもが腹が減ったと言うときの声だった。

『ください』

両腕に、光を返さない刃が伸びた。

第四章 了