海壁

第三十二章

四本

挿絵:四本

提督の家の中庭で、ミラが待っていた。塔の朝は、人の輪の外で、ずっと見ているだけだった。

ミラベルが門をくぐると、ミラは、腕のない体で、まっすぐ走ってきた。ぶつかる手前で止まって、首を下げた。

『…仕事、やめた』

「え」

『見てる、仕事。途中で、やめた。ごめんなさい』

ミラベルは、ミラの前にしゃがんだ。

マーロウが、後ろから言った。

「おれが変えさせた。謝るのは、おれだ」

ミラベルは、振り向かなかった。ミラの顔を、両手で挟んでいた。

「ミラ。やめて、何したの」

『走った。伝えた。ロズリンに』

「それで、みんなが塔に来たの?」

『来た』

ミラベルは、ミラの額に、自分の額をつけた。

「…偉い。すっごく偉い。あたしより、ずっと偉い」

ミラは、金属の目を瞬いた。

それから、少し考えて、言った。

『名前、もらうと、あったかい。褒められると、もっと、あったかい』

ミラベルは、笑いながら、少し泣いた。


夜、提督の家のいちばん奥の小さな部屋で、ミラベルは寝台の上に正座していた。

左手を、膝の上に置いていた。

『…数えて』

マーロウは、寝台の端に腰を下ろした。

左手を取った。金属の指を、一本ずつ、自分の指で押さえた。

「一」

人差し指。

「二」

中指。

「三」

薬指。

四本目で、止まった。

船の上では、爪の先ひとつぶん、内側に曲がっていた指だ。

押さえた。まっすぐだった。どこも、曲がっていなかった。

「…四」

ミラベルは、息を止めていた。

マーロウは、手を放さないまま、言った。

「全部だ。まっすぐだ」

ミラベルの目から、涙が、ぼろぼろこぼれた。

『数えてもらった。やっと、数えてもらった』

「待たせたな」

『待ったよ。すっごく待った。四日で着いて、一日で片づけて、四日で戻るはずだったのに。十一日かかった』

「知ってる」

『でも、一日目だって言ってくれた』

ミラベルは、濡れた顔のまま、両手を持ち上げた。

右手と、左手。まっすぐになった四本の指の、金属の手と、そうでないほうの手。

その両手で、マーロウの顔を、挟んだ。

しばらく、そのまま、見ていた。

『…ずっと、これ、やりたかったの』

「知ってる。哨所の火の横で、聞いた」

『覚えてたの』

「覚えてる」

ミラベルは、挟んだ顔を、自分のほうへ引き寄せた。

口をつけた。いつもの、行ってきますのやつより、ずっと長く。

離れてから、額をくっつけたまま、言った。

『好き。大好き。愛してる。二百十一年ぶん、全部』

マーロウは、目を閉じた。

挟まれた顔のまま、言った。

「…九日、数えるより、一日目を待つほうが、長かった」

『え』

「おまえがいない日は、長い。それだけだ」

ミラベルは、声を出さずに、マーロウの首に腕を回した。

灯りは、それからすぐに消えた。


翌朝、ミラベルは、毛布の中から出てこなかった。

頭までかぶって、丸くなっていた。

マーロウが起きて、上着を着ても、出てこなかった。

「…朝だぞ」

『知ってる』

「顔、出せ」

『出せない。昨日のこと、思い出すと、無理』

毛布の中から、くぐもった声がした。

『二百十一年で、いちばん恥ずかしい朝なの。坊やのせいだからね』

マーロウは、寝台の端に座った。

毛布の上から、頭のあたりに手を置いた。

「二日目だ」

毛布が、止まった。

「一日目は、昨日だった。今日は二日目。今日も、いた」

毛布が、ゆっくり、下がった。

真っ赤な顔が、半分だけ出てきた。

『…おはよう、マーロウ』

「おはよう」

部屋の外で、足音がした。

戸の隙間から、ウィラの声がした。

『朝ごはん、できてるよー。二人とも、遅いよー』

それから、少し間を置いて、もっと小さな声で。

『…二日目、おめでと』

ミラベルは、また毛布の中に引っ込んだ。

中で、言葉にならない声を上げていた。

第三十二章 了