海壁

第二十四章

提督の家

挿絵:提督の家

提督の家は、主がいなくなってからも、提督の家のままだった。

残った兵は十人。提督が牢へ連れていかれた朝、十人とも、門の前から動かなかった。議会は、死んだ男の言葉を記録しないかわりに、死んだ男とその連れを追い出しもしなかった。数に入らないものは、追い出す理由もないらしかった。

ロズリンは、提督の部屋の壁の前にいた。

壁いっぱいの数字を、帳面に写していた。数を消すな、と言われた。消さないためには、写しておくのがいちばんいい。

その手元に、影が落ちた。

振り向くと、窓の外に白い髪があった。

「…ミラさん?」

ミラは、窓枠に肩をかけて、転がるように部屋へ入ってきた。息は切れていなかった。刃の体は、息を切らさない。

『伝える。マーロウに、言われた』


ミラの話は、短かった。短いのに、全部入っていた。

蓋の真ん中に、途切れた輪がある。鍵穴。鍵は、マーロウの血。今朝、取られた。小瓶に四滴。三日後の夜、針金で下ろす。夜明けに底に着く。

ミラは、言い終わると、口を閉じた。

部屋に集まっていた全員が、黙った。

ケイルが、壁に背中を預けたまま、最初に口を開いた。

『剣を待たずに済むわけだ。議会にしては、仕事が早い』

「感心しとる場合か」とドラグが言った。

『感心はしとらん。数えとる。三日だ』

ヨルンとユランが、背中合わせのまま、同時に首を動かした。ヨルンは扉を、ユランは窓を見ていた。

ロズリンは、ミラの前にしゃがんだ。

「マーロウさんは、何か、ほかに言っていましたか」

ミラは、少し考えた。

『ミラベルには、おれが謝る、って』

ロズリンは、帳面に書こうとして、筆を止めた。

それは、書かなくていい、と思った。


夕方までに、決めた。

ケイルと双子は、塔の北の野へ行く。ニコとドンのところだ。三日のうちに何が起きるかを、ニコに伝えて、トンにも伝えてもらう。

ドラグは、荷車で南の作業場へ行く。シビルとラーナとノエラに知らせる。縫い終わった翼のことも。

ロズリンは、都に残る。

「牢へ行きます」

ロズリンは、帳面を閉じた。

「提督に会います。数を読む人は、あの人しかいません。それに、蓋を開ける方法を本部が答えたなら、閉める方法も、本部は知っているはずです。訊かれていないから、言っていないだけです」

『牢には、入れんぞ』とケイルが言った。

「広間の番の方に、頼みます。オルヴァン・ケイド将軍です。あの方は、議会のものではないと言って、翼を下ろしました」

ドラグが、ロズリンを見た。

何か言いかけて、やめた。


出る前に、ドラグは、中庭の井戸の縁に座っていた。

井戸は、空だった。この家の井戸も、去年のうちに枯れたと兵が言っていた。

ロズリンが、布と薬の壺を持って来た。

『隊長。胸』

「治る」

『治っていません。七日です。記録にあります』

ドラグは、黙って上着の前を開けた。

白い刃の腹に打たれた胸は、まだ紫色だった。ロズリンは、古い布を外して、薬を塗って、新しい布を巻いた。巻く手が、途中で一度止まった。

「…書かなかったことの欄は、まだ続いとるのか」

ドラグが、前を向いたまま訊いた。

ロズリンの手が、また止まった。

『四十二行目で、止まっています。読まれた、と書いたところで』

「そうか」

ドラグは、しばらく空の井戸を見ていた。

「四十三行目は、おれが言う」

ロズリンの眼鏡の奥で、目が大きくなった。

『…今、ですか』

「今じゃない。片づいてからだ」

ドラグは、上着の前を閉じた。

「片づいてから言うと決めておけば、片づけるのに身が入る」

ロズリンは、布の端を結んだ。きつく。

『…では、早く片づけてください』

「そのつもりだ」


ケイルが、門の前で弟を待っていた。

双子は、もう門の外に出ていた。

『荷車は、おまえが引くのか』

「馬がいる」

『胸で手綱を引くなよ』

「分かっとる」

ケイルは、弟の上着の袖を見た。自分の袖は、短い。弟の袖は、ちょうどいい。

『…ドラグ』

「なんだ」

『三日後の夜が明けるころ、塔で会おう。遅れるなよ。おまえは昔から、大事な日に限って遅れる』

「兄貴の葬式にも、出られんかったしな」

ケイルは、笑った。弟と同じ高さの声で。

二人は、門の前で別れた。東と、南へ。

ロズリンは、窓からそれを見ていた。

それから、ミラのほうを向いた。

「ミラさん。明日、一緒に牢へ行ってくれますか」

『行く』

ミラは、金属の目で、北東の空を見ていた。議場のある方角だった。

『マーロウ、一人。見てる人、いない』

「…はい。すぐ、戻りましょう。三日のうちに」

第二十四章 了