海壁

第三十一章

死んだ男の一行

挿絵:死んだ男の一行

提督の船から、光の柱が降りてきた。

柱の中に、帳面を抱えた赤茶の髪が見えた。

ウィラは、柱が地面に着く前に、飛び降りていた。

転びかけて、立て直して、走った。瓦礫を越えて、濡れた地面を避けて、まっすぐ。

マーロウの胸に、ぶつかった。

『ただいま!』

「おかえり」

『遅れた! ミラベルが悪いんじゃないの! 五隻が来て、本物が二体いて、剣が飛んで、それで』

「知ってる。見なくても分かる」

ウィラは、顔を上げた。

『…なんで』

「二人とも、帰ってきた。それで足りる」

マーロウは、ウィラの頭に手を置いた。

九度目だった。

ウィラは、帳面を胸に押しつけたまま、しばらく動かなかった。

それから、帳面を開いて、マーロウの前に突き出した。

『見て。書いた。全部、帝国暦で。最後のとこ、ミアが名前書いた』

いちばん最後の頁に、丁寧な字で、ミア・ホロウェイ、とあった。

その上の行に、ウィラの字があった。

帝国暦三四九年、春。帰る。


議長は、瓦礫に腰を下ろしていた。

オルヴァンが、その横に立っていた。支えるでもなく、離れるでもなく。

ニコが、泣きはらした顔で、議長の前に立った。

マーロウが、その後ろに立った。

「こいつの話を、聞いてやってくれ」

議長は、濁った目で、ニコを見上げた。

『…海の声の子どもか』

ニコは、頷いた。

それから、話した。

トンの体の中に、蓋の下から連れてきた子どもがいたこと。日に当たって、少し死んだこと。それでもトンが上がってきたのは、蓋の下の子どもを守るためだったこと。

「見えないけど、いるの」

ニコは、言った。

「ぼくにも見えない。でも、トンは、全部の名前を知らないのに、全部を守ってるの。三百年、ずっと」

議長は、長いこと黙っていた。

膝の上で組んだ手が、震えていた。

『…わしには、見えなかった』

細い声だった。

『見えなかったが、死んだのは、分かった』

議長は、倒れた塔の根元の、管の口を見た。

『ヨナスも、最後は、見えなくなった。泥を絞った夏の終わりに。わしの目の前で、見えなくなった』

誰も、口をきかなかった。


ウィラが、荷車のほうへ走っていって、戻ってきた。

手に、紙の束と、小さな袋を抱えていた。

東の哨所で、ハーランから預かったものだった。紙の束は、九年ぶんの空と書いた紙と、そのあとの試しの記録。袋は、麦に似た草の種だ。

「これ」

ウィラは、議長の前に、それを置いた。

ウィラは、議長と話すのは初めてだった。少し、声が固かった。

「蓋を開けなくても、麦は作れます。オークが水を通して、人間は乾いた側で蒔くの。人間は、一人も水に浸からない。何を試して、何がだめだったか、ここに全部書いてあります」

議長は、紙の束に、震える手を置いた。

『…水は』

「ドンがいる」とマーロウが言った。「あいつが通った跡には、水が残る。人間は、そこに手を入れちゃいけない。だが、オークは平気だ。草も育つ」

『来年の話だな』

「来年の話だ」

議長は、しばらく紙の束に手を置いたまま、動かなかった。

それから、オルヴァンを見上げた。

『今夜、議会を開く。九人、全員だ。来ない者は、引きずってこい』

「広間の番の仕事ではない」

『では、今から、おまえの仕事にする』

オルヴァンは、少しだけ、口の端を動かした。


その夜の議会の記録は、ロズリンが帳面に写した。書記の部屋の板を返しに行ったオルヴァンが、ついでに写しを取らせてくれたのだった。

一つ。蓋は切らない。開けない。先の議決は取り消す。九人のうち九人。

一つ。提督ヴァレリア・コルトを、牢から出す。九人のうち八人。

一つ。都の東の野で、麦を試す。水はドンのそば、蒔くのは乾いた側。

一つ。死んだ男の言葉を、一行だけ、記録に残す。

残された一行は、ケイルが議場で言ったものだった。

一度でだ。怒って百度叩いたら、都の三重の壁は、三重の瓦礫になる。

ケイルは、それを聞いて、笑った。

『これで、少しは生き返ったか』

ドラグが、隣で言った。

「葬式を、もう一回出されるぞ」


提督は、翌日、日が沈む前に、牢から出てきた。

薄い灰色の服のまま、議場の階段の下で、マーロウの前に立った。

『北の二本は』

「止まった。剣で」

『北の街は』

「一人も死んでない。ウィラが、そう言ってた」

提督は、目を閉じた。

開けてから、ミラベルを見た。

ミラベルは、剣を背負ったまま、マーロウの腕にしがみついていた。

『…数ではなく、信じた』

提督は、平らな声で言った。

『当たった。数を読まずに当たったのは、初めてだ』

第三十一章 了