第十四章
ドンとトン

「待って!」
ニコの声が、野を渡った。
巨人の拳が、空の高いところで止まった。
ニコは、濡れた地面へ走り込んだ。筒を毎日飲んでいるから平気だ、と本人は言う。マーロウは、乾いた地面の端で足を止めた。ミラも、その横で止まった。
ニコは、巨人の足元まで走った。水でできた足に、額を押しつけた。
「違うの! 聞いて! 違うんだよ!」
拳は、下りてこなかった。
巨人の体の中で、残った星が、落ち着きなく流れていた。
ニコは、話した。
マーロウには、ニコの声しか聞こえなかった。それでも、何を話しているかは分かった。
閉じ込められているんじゃない。守られてるんだ。下には、光に当たったら死んじゃう子どもがいっぱいいる。だから、上に蓋がある。誰かが、ずっと前に、閉めてくれた。
叩かなくていい。助けなくていい。あいつは、出たがってない。
ニコは、泣きながら話した。
巨人は、動かなかった。
長いこと、動かなかった。
それから、持ち上げていた拳を、ゆっくりと開いた。
開いた手のひらを、地面に下ろした。
叩くのではなかった。置いた。水の手のひらが、赤い土の上に、そっと載った。
地面の、ずっと下から、小さな音が返ってきた。
一つだけ。
トン、と。
ニコが、振り返った。
顔じゅうが、涙と鼻水だった。それでも、笑っていた。
『マーロウ! 返事した! 今の、怒ってない!』
「分かるのか」
『分かるよ! 全然違うもん!』
ニコは、巨人の手のひらに、自分の手を重ねた。
『あのね、二人とも、名前がないんだって。三百年、誰にも呼ばれたことないって』
「…そうか」
『だから、叩いてたんだよ。呼ぶ方法が、それしかなかったから。叩いて、返事して、叩いて、返事して。ずっと』
ニコは、鼻をすすった。
『ぼく、名前つけていい?』
「おまえが決めろ」
ニコは、しばらく考えた。
それから、巨人を見上げて言った。
『ドン』
地面を指さした。
『トン』
乾いた地面の端で、ロズリンが帳面を落としかけた。
『…それで、よいのですか』
「いいの」
ニコは、きっぱり言った。
「ずっと、そうやって呼び合ってたんだから。これが、二人の名前だよ」
巨人が、手のひらを、もう一度だけ持ち上げた。
下ろした。
ドン、と地面が鳴った。叩くというより、戸を一つ鳴らすような音だった。
地面の下から、返ってきた。
トン。
今度は、地面は揺れなかった。塔の骨も、鳴らなかった。
ただ、音だけが、名前を呼ぶように、行き来した。
提督が、腕を組んだまま、それを聞いていた。
『…井戸は』
「今日から、枯れないだろうな」とマーロウは言った。「もう、叩かなくていいんだから」
提督は、何も言わなかった。
言わずに、帳面の代わりに、自分の手のひらに指で数字を書いていた。
日が沈んだ。
巨人は、塔の北の野に、横になった。半分の高さのまま、膝を抱えるように丸くなった。体の中の星が、ゆっくり瞬いていた。
提督が、兵を呼んだ。
『巨人のまわり、百歩のところに縄を張れ。人間は、中に入れるな。巨人が流す水は、生き物を通った水だ。手首まで浸かれば、十一日で変わる』
兵が、走っていった。
ニコは、巨人の横に座っていた。濡れた土の上に、膝を抱えて。
マーロウは、縄の手前から、声をかけた。
「帰るぞ」
『…もうちょっと』
「冷えるぞ」
『冷えない。ドンの横、あったかいもん』
マーロウは、しばらくニコの背中を見ていた。
十三の子どもが、三百年で初めて名前を呼ばれた巨人の横で、膝を抱えていた。
ミラが、マーロウの横に来た。マーロウの顔を見上げた。
『名前、もらうと、あったかい』
「…そうか」
『うん』
少しして、ミラがまた言った。
『ミラベル、いつ、帰る』
「九日で戻る約束だ。今日で二日目」
『あと、七日』
「数えられるのか」
『数えられる。指、ないから、首で数える』
ミラは、首を七回、縦に振った。
マーロウは、笑いそうになって、やめた。やめてから、結局、少しだけ笑った。
そのとき、北の空から、羽ばたきの音がした。
一つではなかった。
十。二十。まだ増える。
暗くなりかけた空に、グリフォンの影が、横一列に並んでいた。乗り手の槍の先が、月の光を返していた。
先頭の一人だけ、グリフォンに乗っていなかった。背中の翼で飛んでいた。
グレゴール・ヴァーンが、塔の上に降りた。
よく通る声が、野に落ちてきた。
『議会の命令だ』
グレゴールは、ニコを見て、それからマーロウを見た。
『神の血と、海の声を、議場へ連れていく。今夜だ』
提督が、一歩前に出た。
「議場は、明日の朝のはずだ」
『議会が、早めた』
グレゴールは、提督を見なかった。
『提督。あなたの船が北へ飛んだことも、議会はもう知っている』
第十四章 了