海壁

第二十八章

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挿絵:開く

夜の空を、提督の船が南へ走っていた。

ミラベルは、船首に立っていた。背中に、名前のない剣を縛りつけたまま。

「十一日目」

指を折った。まっすぐになった四本で。

ウィラが、横に来た。帳面を胸に抱えていた。

『寝てないでしょ』

「寝ない。数えてるから」

『二日遅れ、気にしてる?』

「気にしてる。すっごく気にしてる」

ミラベルは、船の縁に額をつけた。

「坊や、十日目は数えないって言ったの。昨日、数えてもらえなかったんだよ、あたし」

『…マーロウなら、なんか、ずるいことしてると思う』

「ずるいこと?」

『数え方変えるとか。あの人、そういうとこあるじゃん』

ミラベルは、顔を上げた。

ベルと同じことを言う、と思った。

「嬢ちゃんも、ベルも、坊やのこと分かりすぎ」

『あたし、三年、娘やってるもん』

ウィラは、言ってから、自分で少し赤くなった。

東の空が、白くなりはじめていた。

下に、灯りが広がった。三重の壁の都。

その東の外れに、灯りが、何十も集まっていた。塔のまわりだった。

「…なんで、あんなに灯りがあるの」

ウィラが、身を乗り出した。

そのとき、塔の灯りが、いっせいに揺れた。


塔の根元で、技師長の声が止まった。

「…千九百五十メートル」

針金が、止まった。底に着いたのだ。

夜明けの光が、野の端から伸びてきていた。

議長が、輿の上で、身を乗り出した。

『どうなった』

「分かりません。管の先で、瓶が割れたかどうかも」

技師長は、針金に手を当てていた。

その手が、びくりと跳ねた。

針金が、下から、引かれた。一度。二度。

管の口から、音がした。

ごう、と。

風の音だった。塔のまわりの空気が、管の口へ、吸い込まれはじめた。

マーロウの髪が、塔のほうへなびいた。

技師長の顔から、色が抜けた。

「…開いた。蓋が、開きはじめた」

足の下が、鳴った。

トン、ではなかった。

叩く音でも、呼ぶ音でもなかった。

地面の底が、丸ごと、叫んでいた。


野の北から、光が走ってきた。

ドンだった。半分の高さのまま、立ち上がって、塔へ向かってきていた。その足元を、小さな影が走っていた。

ニコだった。

ニコは、縄の手前で止まらなかった。止まらずに、塔へ走ってきた。

『やめて! 抜いて! 開いちゃう!』

声が、裏返っていた。

『トンが、泣いてる! 蓋の下の子たちに、上の空気が来るって!』

近衛が、槍を構えた。

その槍の前に、翼をつないだ獣が一頭、四つの足で降りてきた。

南の空から、翼が来ていた。

一枚、二枚、三枚。灰色の翼。茶色の翼。先だけ黒い翼。十一の翼が、低く、ふらつきながら、それでも空を渡ってきた。縫い目が締まったばかりの翼だった。

その下の道を、荷車が一台、土煙を上げて走ってきた。

御者台に、ドラグ。荷台に、シビル。その横で、灰白色の翼を背中で畳んだ四つ足の獣が、身を低くしていた。

ラーナだった。

荷車の後ろを、短い黒髪の女が走っていた。両腕に、光を返さない刃。

都のほうからは、背中合わせの二人と、翼のない男が走ってきた。その後ろに、帳面を抱えた眼鏡の女と、腕のない白い髪。

マーロウは、全員の顔を見た。

遅れなかった。誰も。


近衛が、動いた。

百のグリフォンが、いっせいに翼を広げた。

ケイルが叫んだ。

『ニコを守れ! ニコが管から離れんのなら、ニコのまわりを空けろ!』

ドラグが荷車から飛び降りた。胸を押さえもせずに、塔の足元に積まれた管の継ぎ手をつかんで、投げた。一騎目が落ちた。

ヨルンとユランが、ニコの前と後ろに立った。

ノエラが、刃で、近衛の槍を三本まとめて払った。払うだけで、斬らなかった。

マーロウの両腕をつかんでいた兵が、手を放して、自分の槍を取った。

マーロウは、自由になった。

なったが、何をすればいいのか分からなかった。開きはじめた蓋を、上から止める方法を、マーロウは知らなかった。

管の口の風が、強くなった。

ごう、が、ごおお、になった。

地面が、跳ねた。

塔の鉄の骨が、根元から、ぐにゃりと曲がった。

「離れろ!」

マーロウは、技師長の襟をつかんで、後ろへ引きずった。

次の瞬間、管の口から、黒いものが噴き上がった。

水だった。

夜の底みたいに黒い水が、千九百五十メートル下から、一本の柱になって、空へ突き上がった。

塔が、倒れた。

鉄の骨が、野に叩きつけられて、灯りが何十も、いっせいに消えた。

黒いしぶきが、雨のように野に降った。しぶきでは、何も始まらない。それでも人間の兵たちは、顔を覆って走った。

黒い水の柱が、夜明けの空の中で、形を変えていった。

腕になった。肩になった。頭になった。

ドンと同じくらいの、巨人になった。

ただ、体の中に、星がなかった。黒い水の奥で、ときどき、青い光が、息をするように滲んでは消えた。

ニコが、泣きながら、その名前を呼んだ。

『トン…!』

朝日の最初の光が、黒い巨人の肩に当たった。

第二十八章 了