海壁

第三十章

鍵

挿絵:鍵

白い髪ではなかった。灰色の髪だった。

耳の下で雑に切った灰色の髪が、朝日の中で、なびいていた。

ミラベルは、一隻目の船の腹へ、まっすぐ落ちていった。

背中から、剣を抜いていた。

落ちながら、振った。

回る槍の、根元。本部の金属と、船の腹の鉄の継ぎ目。

槍が、根元から、ずれた。

回ったまま、船の腹から外れて、野へ落ちていった。地面に突き刺さって、やっと止まった。

ミラベルは、落ちてくる槍の柄を蹴って、二隻目へ跳んだ。

何も踏まずに、空を渡った。

二隻目の槍が、トンの背中へ下りていくところだった。

剣が、横に走った。

二本目の槍が、落ちた。

野の上で、近衛の兵が、槍を取り落とした。

「…剣と、魔法だ」

その兵は、ぽかんと口を開けていた。

「子どものころ、婆さんに聞いた。昔話だ。剣を持った女が空を歩いて、翼のない獣が飛ぶ。昔話だろ、あれは」

隣の兵は、答えなかった。答えずに、同じ空を見上げていた。

槍を失った二隻は、傾いたまま、都のほうへ逃げていった。


ミラベルは、倒れた塔の瓦礫の上に降りた。

砂が、一歩も滑らなかった。

振り向いた。

マーロウと、目が合った。

ミラベルの顔が、くしゃっと崩れた。

『坊や! ただいま! 遅れた! 二日遅れた! ごめん!』

マーロウは、一歩前に出た。

言うことは、決めてあった。

「一日目だ」

ミラベルが、止まった。

『…え』

「十日目は数えなかった。だから、数え方を変えた。おまえが帰ってきた日が、一日目だ」

ミラベルは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。

それから、剣を握ったまま、両手で顔を覆った。金属の手も、そうでないほうの手も。

『…ずるい』

「ずるくていい」

『ベルが言ってたとおりだった。嬢ちゃんも、言ってた』

「何をだ」

『坊やは、数え方を変えるって』

話の続きは、足の下の揺れで途切れた。

トンの体の奥の青い光が、また弱くなっていた。


ロズリンが、帳面を抱えて走ってきた。

『マーロウさん! 閉める方法があります!』

ロズリンは、息を切らしながら、牢で読んだ白い字を、そのまま言った。

同じ血を、輪の内側に、下から当てる。上からは届かない。開きはじめた蓋は、半日で開ききる。

マーロウは、黒い巨人を見上げた。

「…下から、か」

蓋の下にいるのは、一人だけだった。

「ガラスの瓶は、あるか」

マーロウは、技師長に向かって言った。

技師長は、瓦礫の横に座り込んでいたが、その声で顔を上げた。震える手で、上着の内側を探った。

『…予備が、一本』

マーロウは、鉤で、左の手のひらを切った。

血を、瓶に受けた。一滴、二滴、三滴、四滴。

技師長が、震える手で蝋の塊を差し出した。ミラベルが、それを瓶の口に指で押し込んだ。

マーロウは、瓶を、ニコに渡した。

「トンに、頼めるか」

ニコは、瓶を両手で包んだ。

『…トン、血が怖いって。血は、水を食べるから』

「ガラスの中なら、食べない。坑の底の男は、九年、ガラスの筒で海の水を運んでた」

マーロウは、ニコの目を見た。

「割るのは、蓋の輪の内側だ。下からだ。トンにしか、できない」

ニコは、頷いた。

濡れた地面を走って、黒い巨人の足元まで行った。瓶を、頭の上に掲げた。

『トン。これ、持っていって。蓋を、閉めて。下から』

黒い巨人が、ゆっくり、身を屈めた。

黒い水の指が、ニコの手の上に降りてきた。

瓶が、水の中に沈んだ。黒い水の奥で、小さな瓶が、ガラスの形のまま、ぽつりと浮いていた。


トンが、崩れた。

巨人の形が、ほどけて、黒い水の柱に戻った。

柱が、倒れた塔の根元の、管の口へ、流れ込んでいった。

朝日が、そこに当たる前に。

ドンが、最後まで屋根になっていた。

黒い水が、全部、地面の中に消えた。

野が、静かになった。

誰も、口をきかなかった。

管の口に、まだ風が吸い込まれていた。ごう、と。

十数えた。

百数えた。

マーロウは、数えるのをやめた。

ミラベルが、隣に来て、血の出ている手を、自分の手で包んだ。金属のほうの手で。

長い時間が経った。

日が、野の半分まで昇っていた。

足の下で、音がした。

トン。

一つだけ。

深く、低く。戸を一つ、閉めるような音だった。

管の口の風が、止まった。

ニコが、地面に両手をついたまま、声を上げて泣いた。

『…閉まった。閉まったって』

しゃくりあげながら、続けた。

『連れてきちゃった子、少し、死んだって。日に当たったとこの子。でも、蓋の下の子たちは、みんな、無事だって』

ドンが、立ち上がった。

地面を、そっと、一度叩いた。

ドン。

少しして、下から。

トン。

第三十章 了