海壁

第二章

貸さない

挿絵:貸さない

ミラベルの刃は、まだ提督の喉の前にあった。

「ねえ。貸すって、何」

『言葉のとおりだ。使って、返す』

「あたし、鍋じゃないんだけど」

『では、雇う』

「それも嫌」

ミラベルは、提督から目を離さないまま、こちらへ言った。

『坊や。この人、あたしのこと、ずっと物みたいに言う』

「聞こえてる」

マーロウは、御者台から降りた。濡れた地面の手前で、足を止めた。

「提督。話は聞く。ただし、条件はこっちも出す」

『言え』

「一つ目。あいつを吸うのを、今すぐやめろ」

マーロウは、巨人を顎で指した。巨人は、半分の高さのまま、膝をついていた。体の中で、残った星がゆっくり瞬いていた。

『あれが地面を叩くのをやめるなら、やめる』

「叩くのをやめさせればいいんだな」

『できるならな』

マーロウは、振り返って呼んだ。

「ニコ!」

ニコは、もう巨人の足元にいた。水でできた足に、額を押しつけていた。

しばらくして、ニコが走って戻ってきた。濡れた地面の端で止まって、息を切らした。

『三日なら、待つって』

「叩かないでか」

『うん。下のやつに返事しないで、我慢するって。でも、三日だけ。吸わないでくれるならって。痛いのは、もう嫌だって』

提督が、指を折った。

『十日で七本。三日なら、二本は助かる』

「数で言うと、どうだ」

『悪くない』

提督は、甲板の兵に手で合図をした。船の腹で、槍を吊る歯車が音を立てて止まった。


「二つ目。門だ。全員を通せ」

マーロウは、荷車を振り返った。

「おれを入れて帝国の人間が四人。背中のつながった二人。翼のない男が一人。それから、都にいるおれたちの連れもだ」

提督の目が、荷台のケイルで止まった。

『その男は、通れない』

荷台で、ケイルが立ち上がった。

「おれが門を開ける。そのつもりで来た」

『おまえの顔では、もう開かない』

「都は、まだおれの顔を覚えとる」

『覚えている。だから開かない』

提督は、初めて、少しだけ口の端を上げた。

『位を返した将軍は、死んだ者として扱う。都の決まりだ。おまえの葬式は、去年のうちに済んだ。棺は空だったがな』

ケイルは、立ったまま動かなかった。

背中合わせの双子が、顔を見合わせようとして、できなかった。

「…葬式を、出したのか」

『出した。死んだ男の顔で門を叩けば、番兵は撃つ。それも決まりだ』

ケイルは、長い息を吐いた。

それから、乾いた声で笑った。

「弟に知らせんといかんな。おれは死んどるそうだ」

マーロウは、提督に向き直った。

「だったら、あんたが開けろ。全員だ。死んだ男もだ」

『いいだろう。刃が止まればな』


「三つ目は、おれじゃない」

マーロウは、ミラベルを見た。

ミラベルは、刃を少しだけ下げた。喉から、指二本ぶん。

「止めたあとのことは、あたしが決める」

『壊せ。都は、それを望んでいる』

「壊すよ。でも、名前をつけてから。壊し方も、あたしが決める」

『名前?』

「無いんでしょ、その子たち。番号しか」

提督は、少し黙った。

『四本とも、番号だ』

「だと思った」

ミラベルは、刃を腕の中へ戻した。光を返さない線が、するりと消えた。

「止まれば、どっちでもいいんでしょ」

『止まるならな』


「急ぐ理由を言え」とマーロウは言った。「作業場は、もう壊れたんだろ」

『刃は、粒を食う』

提督は、平らな声で答えた。

『逃げた二本は、粒を持たずに逃げた。腹を空かせた刃は、粒のある場所を襲う。昨夜の作業場には、粒の蔵があった。次は、都の蔵だ』

「都の蔵には、何人いる」

『蔵の番が四十人。蔵のまわりの通りに、二千人』

「…分かった」

マーロウは、ミラベルの横に立った。

「行くか」

『坊やが決めるんでしょ』

「一人で決めるのはなしだって、おまえが言った」

ミラベルは、目を丸くした。

それから、にっと笑った。

『覚えてたんだ』

「覚えてる」

『行く。坊やに言われたからじゃないよ。あたしが、行きたいの』

ミラベルは、左手を開いて、閉じた。

『その子たちの顔、見たいから』


提督は、船を指した。

『作業場まで、この船で運ぶ。都の南だ。夜明け前には着く』

「荷車もか」

『荷車も、馬もだ。光の柱で上げる』

荷車の上で、ウィラが手綱を握りしめた。

『馬、船に乗るの!?』

「乗るらしい」

『暴れるよ、絶対』

「おまえが乗せろ。おまえが握ると、馬は大人しくなる」

『速くなる、の間違いでしょ』

ロズリンが、帳面を開いた。何か書こうとして、筆を止めた。

『…空船に乗った日、という行は、この帳面には初めてです』

提督は、船へ歩きかけて、足を止めた。

振り返らずに言った。

『一つ、言い忘れていた』

ミラベルが、顔を上げた。

「なに」

『刃の体は、都の技師が作った。腕は、本部から買った。形は、おまえの破片から写した』

提督は、肩越しにミラベルを見た。

『逃げた二本は、おまえと同じ顔をしている』

ミラベルの左手が、開いたまま、止まった。

第二章 了