海壁

第十五章

近衛の翼

挿絵:近衛の翼

提督は、塔の上を見上げたまま言った。

「神の血は、私の預かりだ。議会には、明日の朝に連れていく。紙にそう書いてある」

『紙は、議会が書き直した』

グレゴールが、翼を広げた。

『渡さないなら、奪う』

グリフォンが、いっせいに降下してきた。

乗り手は、みんなオークだった。牙を剥いて、槍を構えていた。

提督の兵は、十人しかいなかった。


最初の一騎が、マーロウへ来た。

槍の穂先が、胸へまっすぐ。

横から、鉄の棒が飛んできた。

グリフォンの首に当たって、乗り手ごと地面に転がした。

ドラグだった。塔の足元に積んであった管の継ぎ手を、投げていた。胸を押さえて、顔をしかめて。

「昔から、投げるのだけは上手うできとる」とドラグが言った。

『自分で言うな』とケイルが言った。

二騎目。三騎目。ドラグが投げるたびに、一騎ずつ落ちた。それでも、空の影は減らなかった。

マーロウは、鉤で手のひらを切った。

四騎目のグリフォンが、爪を立てて降りてきた。マーロウは避けずに、鉤で前脚の付け根を裂いた。乾いた皮膚は、血を通さない。だから先に裂いた。裂けた傷に、切った手のひらを押しつけた。

グリフォンが、甲高く鳴いた。前脚が、枯れ枝のように細くなった。足元に、黒い粒がばらばらと落ちた。

グリフォンは、乗り手を振り落として、よろけながら逃げていった。

マーロウは、自分の手を見た。

何を消したのか。書く者が、ここにいるだろうか。

ロズリンが、塔の陰で帳面を開いているのが見えた。


グレゴールが、降りてきた。

速かった。翼を一度打つたびに、提督の兵が二人ずつ、地面に叩きつけられた。

グレゴールは、翼の縁で、兵の槍を叩き折った。羽根が、刃のように硬かった。

ケイルが、前に出た。

翼のない背中で。

『グレゴール』

「将軍」

グレゴールが、空中で止まった。

「…いや。死んだ方でしたね。葬式には、私も出ました」

『棺は空だったろう』

「空でした。軽くて、担ぐのが楽だった」

グレゴールが、突っ込んできた。

ケイルは、避けた。一度目は。

二度目で、翼の縁に胸を打たれた。ケイルの体が、宙を飛んで、管の山に落ちた。


ニコが、巨人の横で立ち上がった。

両手を、巨人の足に当てた。

『ドン』

小さな声ではなかった。

『守って! みんなを! ぼくも、守るから!』

巨人が、起き上がった。

半分の高さでも、塔の半ばまで届いた。水の腕が、横に振られた。

空のグリフォンが、三騎、四騎、まとめて水に打たれた。翼が濡れて、重くなって、野に落ちた。オークの乗り手は、水をかぶっても平気な顔で、濡れた地面を転がって逃げた。

ニコは、地面に手をついた。

『トン。一回だけ。お願い』

地面の下から、音が来た。

トン。

今度は、揺れた。塔の根元だけが、どん、と跳ねた。

グレゴールが着地しかけた足場が、ずれた。翼で体勢を立て直した。

その瞬間を、ケイルが見ていた。

管の山から起き上がって、叫んだ。

『ドラグ! あいつは、立て直すとき、右の翼を一度畳む!』

「どこを狙う」

『つなぎ目だ! 縫い目のところだ!』

グレゴールが、右の翼を、畳んだ。

ドラグの腕が、振られた。

管の継ぎ手が、まっすぐ飛んだ。

グレゴールの右の翼の付け根に、当たった。縫い目が、裂けた。

グレゴールが、落ちた。


落ちたところに、ドラグが組みついた。

胸の痛みで、顔が歪んでいた。それでも、放さなかった。

ケイルが、よろけながら来て、グレゴールの両腕を背中にねじり上げた。

兄弟で、一人の男を地面に押さえつけていた。

グレゴールは、顔を土に押しつけられたまま、ケイルを見上げた。

「…死んだ男に、負けた」

『そう報告しろ』

ケイルは、息を切らしていた。

『組むのは、弟のほうが上手い。おれは、翼の癖を知っとるだけだ』

「癖を教えた」とドラグが言った。「だから、半分は兄貴だ」

ケイルは、何も言わなかった。

言わずに、少しだけ笑った。

グレゴールが、土に頬をつけたまま、言った。

「…右を畳む癖を、なぜ知っていたのです」

『あれは、おれの癖だ』

ケイルは、ねじり上げた腕を、放さなかった。

『翼があったころの、おれの癖だ。おまえは、おれの飛び方を、そのまま真似とる』

グレゴールは、しばらく黙っていた。

「…ほかの飛び方を、知りませんので」

ケイルは、答えなかった。


残った近衛は、グレゴールが押さえられたのを見て、北の空へ引いていった。

野に、濡れたグリフォンが何頭も転がっていた。オークの乗り手たちは、槍を捨てて、座り込んでいた。

巨人が、また横になった。ニコが、その横でへたりこんだ。

マーロウは、ニコの頭に手を置いた。

「よくやった」

『…マーロウ、手、血だらけ』

「すぐ塞がる」

提督が、縛られたグレゴールを見下ろしていた。

『近衛長を捕らえた』

提督は、平らな声で言った。

『明日、議会は、私を捕らえに来る』

「どうする」

『明日の議場には、私も行く』

提督は、都の灯りを見た。三重の壁の、いちばん奥の、いちばん白い灯りを。

『捕まりにな。捕まる前に、数を読ませる』

第十五章 了