海壁

第十七章

海壁の街

挿絵:海壁の街

五日目の朝、雲の切れ目から、海壁が見えた。

高さ二十二メートルの、灰色の線。その内側に、屋根の群れ。外側に、白い禁止区と、海。

海は、去年より遠かった。波打ち際が、壁から離れて、乾いた底が帯のように広がっていた。

それでも、街の灯りは、朝の光の中で、一つ残らず点いていた。

「…全部、点いてる」

ミラベルが言った。甲板の縁に、両手でしがみついていた。

『ベル、ちゃんとやってたんだ』

ウィラが、帳面を抱えたまま言った。声が少し震えていた。


船が東門の外に降りると、壁の上で鐘が鳴った。

兵が、いっせいに銃を構えた。共和国の旗の船だ。無理もなかった。

壁の上に、影が一つ跳び上がった。

両腕に、光を返さない刃が二本。後ろで一本に結んだ、長い灰色の髪。ミラベルと同じ顔。

ベルだった。

光の柱が、甲板から地面へ落ちた。ミラベルは、柱の中で、両手を大きく振った。

「ベルーっ! あたしー! 撃たないでー!」

壁の上で、ベルが首を傾げた。

それから、刃を腕の中に戻した。

『撃つのを、やめてください。一番です』

兵が、銃を下ろした。


東門が開くと、人が転がるように出てきた。

先頭は、ガスだった。

『ミラベルぅ! 嬢ちゃん! なんで空から来んだよぉ!』

「近道!」

ガスの後ろから、ミアが走ってきた。ウィラに飛びついた。二人とも、何か言おうとして、言葉にならなかった。

ニムが、杏の袋を抱えて、よたよたと来た。何も言わずに、ウィラの手に杏を三つ押しつけた。

ヴェスタが、店の前に立っていた。ウィラの上着の肩を見た。旅の途中で裂けた肩を。

『破って戻ってきたか』

「うん。まだ途中だけど」

『なら、縫うのは帰ってからだ』

グロム副長が、帳面を持って走ってきた。その後ろから、左手だけで剣を提げた男が、ゆっくり歩いてきた。

右手首から先が、ない。

ガルド・レインだった。


ベルが、ミラベルの前に立った。

『一番。予定より、早い帰還です』

「帰還じゃないの。すぐ戻るの」

『そうですか』

ベルは、少し考えた。

『では、寂しいという状態は、いったん終わりました。また始まる予定です』

ミラベルは、ベルを抱きしめた。金属の腕で、思い切り。

ベルは、今度は、手の置き場所に迷わなかった。すぐに、ミラベルの背中に手を置いた。


東門の横の小屋で、ミラベルが話した。

明日の朝、共和国の船が五隻来ること。剣を取りに来ること。刃が二本乗っていて、その二本は、体の全部が錆びない金属だということ。

「あたしの刃じゃ、切れない。ベルの刃でも、切れない」

『はい。切れません』とベルが言った。

「切れるのは、それだけ」

ミラベルは、ガルドが提げている剣を指さした。

ガルドは、剣を膝の上に置いた。

『振れるのは、おれの左だけだ』

「…左で、振れるの?」

『毎晩、振っとる』

ガルドは、剣の柄を、左手で握り直した。

『楔を削るのと同じだ。四十年ぶりに、下手なことをやっとる。下手なりに、半年で、少しはましになった』


ウィラが、帳面から顔を上げた。

「本部に訊けばいいじゃん」

小屋の隅にいたサイラスが、眼鏡を押し上げた。

『…訊く、でございますか』

「あいつ、訊かれたことには答えるんでしょ。その二本の止め方、訊いてよ」

サイラスは、硝子の板に指を走らせた。

しばらくして、板に白い字が浮かんだ。サイラスが、読み上げた。

『二本は、錆びない金属の体です。私の刃では切れません。名前のない剣で切れます。動かしているのは、胸の中の粒の箱です。箱を割れば、止まります』

小屋の中が、静かになった。

サイラスは、板を見たまま、続けた。

『…続きがございます。共和国からも、昨日、同じように訊かれました。海壁の街の刃を止める方法を。答えました、と』

ガスが、机を叩いた。

「あいつ、どっちの味方なんだよぉ!」

『どちらでもございません』

サイラスは、板を伏せた。

『訊いた者の味方でございます』


その夜、ミラベルは壁の上に座っていた。

ウィラは、ミアと一緒に、ニムの店の二階で帳面を書いていた。一行目は、ロズリンに言われたとおりだった。帝国暦三四九年、春。提督の船で、街に着いた。

ミアは、ウィラの字を横から覗いて、言った。

『ニコは? 筒、ちゃんと飲んでる?』

「飲んでる。あたしが出るまで、毎日叱ってた」

『今は?』

「マーロウが見てる。叱らないけど、見てる」

『…それ、いちばん効くやつ』

二人は、顔を見合わせて、同時に笑った。

ベルが、ミラベルの隣に座った。

しばらく、二人で、遠くなった海を見ていた。

「ねえ、ベル」

『はい』

「好きってさ。離れてると、増えるんだね」

『増えるのですか』

「増える。すごく増える。今、胸のここ、ぱんぱん」

ミラベルは、胸を叩いた。

「坊や、今日で五日目って、数えてるかな」

『一〇六番は、数えると言ったのですか』

「言った。毎日、今日もいなかった、って数えるって」

『では、数えています。一〇六番は、言ったことをします』

ミラベルは、膝を抱えた。

抱えたまま、少しだけ泣いて、すぐ笑った。

「…明日、一日で片づける。そしたら、四日で帰る」


夜明け前、壁の上の鐘が鳴った。

ミラベルは、立ち上がった。

南の空に、影が並んでいた。

一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。

先頭の一隻の腹が、もう開きかけていた。

第十七章 了