海壁

第三十三章

南の地鳴り

挿絵:南の地鳴り

哨所から東へ一日、掘削地の跡を過ぎて南へ折れ、四日走った。

光る草の海を抜けて、赤い土が黒い土に変わった。国境を越えた。

共和国の畑が見えたのは、十九日目の昼だった。

地平線まで、人が寝ている。

去年と同じだった。違うのは、草の光だった。

明るかった。去年の倍は明るかった。

畑の真ん中に、光の輪が一つ。三十メートルの輪が、いちばん強く光っていた。


畑の脇の小屋から、男が出てきた。

背中に翼はない。帝国の軍服を着ている。袖が短い。

ケイル・モーテンセンだった。

『…来たのか』

「来た」

『手紙には、来るとは書いてなかったぞ』

「書く暇がなかった」

ケイルは、笑った。弟と同じ高さの声で。

それから、荷車の後ろを見た。ウィラを見て、ロズリンを見て、ニコを見て、ミラベルを見た。

『五人か』

「五人だ」

『都へ行く気だな』

「行く」

ケイルは、笑うのをやめた。

『やめとけ、とは言わん。言っても無駄なのは、弟で慣れとる』


小屋の奥から、もう一人出てきた。

白い髪。痩せた体。マーロウと同じ顔。

一だった。

畑から上がってきたばかりらしく、胸に管の跡が二つ残っていた。

一は、マーロウを見て、しばらく黙った。

それから、言った。

『…おまえ、また来たのか』

「来た」

『来るなと言ったろう。来るなよ』

「言われた」

『言われて、来たのか』

「来た」

一は、笑った。

九年ぶんの顔の筋肉が、前より少しだけ、よく動くようになっていた。

『馬鹿だな。馬鹿だ』

ウィラが、荷車から飛び降りて、一に駆け寄った。

一は、慌てて両手を広げて、受け止めた。

受け止めながら、ウィラの頭越しに、マーロウに言った。

『…嬢ちゃん、背が伸びたな』

「伸びた」

『歳を数えとるんだな、ちゃんと』

「数えてる」


その夜、畑の脇で火を焚いた。

草の光の中で、火は小さく見えた。

ケイルが、都の話をした。掘削の音のこと。広間の翼のこと。弟とシビルが都の南の作業場を探していること。

そのとき、地面が鳴った。

低い音だった。足の裏から、歯の奥に来る音だった。

全員が、同時に立ち上がった。

畑の二万人の寝息が、いっせいに乱れた。

草の光が、南の方角から順に、波のように揺れた。

ニコが、地面に両手をついた。

顔が、真っ青だった。

『…来た』

「どっちがだ」

『両方』

ニコは、南を見た。

『海から来たあいつが、都の東まで着いた』

それから、下を指さした。

『下にいるやつが、初めて、返事した』

地鳴りが、もう一度来た。

さっきより、長かった。

地平線の南の空が、赤くも、暗くもなく、ただ震えていた。


地鳴りが収まったあと、畑は静かになった。

二万人の寝息が、また揃った。

草の光も、元の明るさに戻った。

一が、畑を見ていた。

『…今のは、なんだ』

「南の下から来た」

『下?』

一は、足元を見た。

九年、坑の底にいた男が、足元を見ていた。

『おれは、九年、底におった』

一は、低い声で言った。

『底から上を見たことは、何度もある。底の下を考えたことは、一度もなかった』


その夜、誰も眠らなかった。

ケイルが地図を出した。共和国の都と、その東の掘削地と、南の作業場の位置。

ロズリンが、それを自分の帳面に写した。

ウィラが、指で距離を測った。

「都まで、あと何日?」

『荷車で六日』とケイルが言った。『ただし、都の門はくぐれん。おまえたちは帝国の人間だ』

「くぐる方法はあるか」

ケイルは、少し黙った。

『一つある』

翼のない背中を、火のほうへ向けた。

『おれが、都に戻る。元将軍として。門は開く』

「あんた、位を返したんだろ」

『返した。だが、都はまだ、おれの顔を覚えとる』

ケイルは、火を見た。

『弟が、あの広間に入ってから、もう何か月にもなる。そろそろ、誰かが迎えに行く頃だ』


夜明け前、ニコが、また地面に手をついた。

マーロウが横に膝をついた。

「聞こえるか」

『…うん』

ニコは、目を閉じていた。

『海から来たあいつが、都の東で止まってる。地面を叩いてる』

「返事は」

『来てる』

ニコの声が、震えた。

『でも、今の返事、さっきと違う』

「どう違う」

ニコは、目を開けた。

『怒ってる』


朝、荷車の支度をした。

畑の番の男たちが、水と豆を分けてくれた。双子のヨルンとユランが、荷台に袋を積んだ。

『おれたちも行く』とユランが言った。

「畑はいいのか」

『番は三人いる。おれたちが抜けても回る』とヨルンが言った。『それに、都の見張りの場所を知ってるのは、おれたちだけだ』

一が、小屋の前に立っていた。

行かない、とは言わなかった。

言わずに、マーロウの前に来て、革の袋を差し出した。

中で、音がした。

『粒だ。畑で余った分を、毎日ひとつずつ取っといた』

「取っといたって」

『三百ある』

マーロウは、袋を受け取れなかった。

一は、その手に押しつけた。

『おまえは、作れる。だが、作るには水が要る。南の水がどうなっとるか、誰も知らん』

一は、マーロウと同じ顔で、少しだけ笑った。

『持っていけ。おれは、ここで待つ。待つ側は、慣れた』


荷車が、南へ動きはじめた。

畑の光が、後ろへ流れていった。

ウィラが手綱を握り、ロズリンが帳面を膝に抱え、ニコが荷台の後ろで南を見ていた。

ミラベルが、御者台の横を歩いていた。走ればすぐの道を、荷車に合わせて歩いていた。

マーロウは、その横顔を見た。

左手の指は、四本ともまっすぐになりかけていた。

『ねえ坊や』

「なんだ」

『怖い?』

「怖い」

『あたしも』

ミラベルは、前を向いたまま、手を差し出した。

血の出ていない手が、それを取った。

南の空の下で、地面が、もう一度、低く鳴った。

第三十三章 了

第三巻 了

第三巻の終わり 人物相関図
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