海壁

第五章

刻印

挿絵:刻印

きっかけは、布一枚だった。

ミラベルの肩の傷を、ヴェスタが縫っていた。融合兵の爪で裂かれた傷だ。ミラベルは椅子に座って、豆を食べながら縫われていた。

傷口から、黒い液がにじんで、下に敷いた布に落ちた。

落ちた液は、布の上で固まって、粒になった。

四つ。

同じ布の上に、マーロウが朝作った粒が、十ばかり転がっていた。籠から溢れた分を、そこに置いてあった。

ウィラが、布を見て、首を傾げた。

「…どれがどれか、分かんなくなった」

『あー。やっちゃった』

ミラベルが、豆を噛みながら言った。

『あたしのは食べないでね。食べても意味ないから』

「なんで」

『燃やしかすだもん。あたし、二百十年、それ燃やして動いてんだよ。出てくるのは、もう空の粒』

マーロウは、布の上の十四個を見た。

どれも、同じ大きさ。同じ色。同じ重さに見えた。


その夜、シビルの蔵に集まった。

窓のない部屋だ。灯りを一つだけ点けて、机の上に布を広げた。

布の上に、粒を三つ並べた。

一つ目。マーロウが今朝作った粒。

二つ目。ミラベルの肩からこぼれた粒。

三つ目。ニムの店の棚から持ってきた、刻印付きの粒。帝国の印が打ってある。市場を何十年も回ってきた粒だ。

『深い水を、一滴だけ使います』

シビルが、筒の栓を抜いた。オットとサムの治療に使っている筒だ。

『三滴で、三日分を失います。ですが、確かめる値打ちはあります』

シビルは、三つの粒に、一滴ずつ垂らした。

それから、灯りを消した。


真っ暗になった。

十数えた。

二十数えた。

マーロウの目が、暗がりに慣れてきた。

一つ目の粒が、光っていた。

強い光ではない。蛍の尻の、いちばん弱いときくらいの光だった。

光は、粒の表面に、模様を描いていた。

細い線が、規則正しく走って、途中で直角に曲がって、また並んでいる。

マーロウは、その模様を知っていた。

本部の壁。坑の梯子。ミラベルの左腕。海壁の石の下。

錆びない金属に走っている、あの線と同じだった。

『…出た』とウィラが囁いた。

二つ目の粒は、光らなかった。

何も、浮かばなかった。

三つ目の粒は。


「…うっすらだな」

ニムの声だった。

三つ目の、刻印付きの粒に、ごく薄い模様が浮かんでいた。一つ目の粒の、十分の一もない明るさだった。

ニムが、震える指で、その粒をつまみ上げた。

「帝国の印が打ってあるんだぞ。変換器が打った、本物の印だ」

『印は、出どころの印です』とシビルが言った。『中身の印ではありません』

灯りが、点け直された。

明るくなった机の上で、三つの粒は、また同じ顔に戻っていた。同じ大きさ。同じ色。


リーネが、口を開いた。

『その印ね。真似なの』

全員が、リーネを見た。

『二百九十年前、本部が変換器を作ったとき、新しい粒に浮かぶ模様を写して、表面に刻む形にしたの。街の人が、見て分かるように』

「…写しか」

『うん。だから、印がある粒は、変換器を通ったってことは証明できる。でも、中身が入ってるかどうかは、何も言ってない』

ニムが、椅子に座り込んだ。

七本の指で、顔を覆った。

「…ニム」

『言うなよ』

ニムの声が、指の隙間から出てきた。

『わしの棚に、いくつあると思っとる。うちだけじゃない。市場じゅうだ。街じゅうだぞ。帝国じゅうだ』

誰も、何も言えなかった。

『この話が知れた日、市場がどうなるか、分かるか』

分かった。

印のついた粒が、明日から疑われる。誰も、自分の粒が空かどうか知らない。確かめる手立ては、深い海の水しかない。

そして深い海の水は、この街に、二本しかない。


『…黙っていよう』

ドラグが言った。

全員が、ドラグを見た。

『壁の話は、紙に書いて残した。あれは残すべきものだった。これは違う』

「隠すのか」

『隠すんじゃない。順番の問題だ』

ドラグは、机の上の三つの粒を見た。

『確かめる手立てが、二本の筒しかない。手立てのない真実を街に投げたら、疑いだけが残る。疑いだけの市場で、いちばん先に潰れるのは、粒を一つか二つしか持ってない連中だ』

ロズリンが、筆を止めていた。

止めたまま、ドラグの横顔を見ていた。

「じゃあ、どうする」

『手立てを増やす。誰でも確かめられるようにする。それから出す』

ドラグは、シビルを見た。

「深い水は、増やせるか」

『海に混ざっています』とシビルが答えた。『ただ、日に当たった上のほうから死にます。夜のうちに、深いところから汲めれば』

「壁の向こうだぞ。禁止区だ」

『ええ』

シビルは、瞬きの遅い金色の目で、マーロウを見た。

『ですから、あなたに頼むことになります。毎朝、あそこに立っている人に』


その夜、マーロウは納屋に戻った。

崩れた壁の隙間から、星の海の光が、少しだけ入ってきていた。

リーネが、戸口に立っていた。

『ここに住んでるの』

「六年前からな」

『…そう』

リーネは、中に入ってこなかった。

入ってこないまま、言った。

『あたしが死んだと思って、出ていったのね。あの家から』

「…ああ」

『ごめんね』

「謝るな」

マーロウは、藁の上に座った。

「生きてたんだ。それでいい」

リーネは、戸口に立ったまま、しばらく動かなかった。

それから、小さく笑った。

『大きくなったね、ほんとに』

その声が、少しだけ、掠れていた。

第五章 了