第二十六章
指

その日の朝、桶の列で、ミラベルが桶を落とした。
落としたのは、初めてだった。
水が、白い地面に広がった。
マーロウが振り返ると、ミラベルは自分の左手を見ていた。
『…今』
「どうした」
『今、動いた』
「何が」
ミラベルは、顔を上げなかった。
左手の、曲がった二本の指を、じっと見ていた。
『動いた。この指。ほんのちょっとだけど』
その場で、ベルが呼ばれた。
ベルは、ミラベルの左手を両手で持って、指の付け根に耳を当てた。
長いこと、そうしていた。
それから、顔を上げた。
『継ぎ目の音が、変わっています』
「どう変わってる」
『三か月前は、砂が擦れる音でした。今は、油の音です』
ベルは、いつもの抑揚のない声で言った。
『戻っています』
ミラベルが、笑った。
笑いながら、首を横に振った。
「…嘘」
『嘘は、言えません』
「だって、戻らないって言ったじゃん。あんたが言ったんだよ。本部の技師でも無理だって」
『言いました。間違っていました』
ベルは、真っ直ぐにミラベルを見た。
『間違いは、記録して、直します。そう習いました。ロズリン・ヴェイクに』
ミラベルは、右手で、左の指をつまんだ。
つまんで、そっと引いた。
曲がったままだった。
『ほら。動かない』
「今、動いたって言ったろ」
『言った。でも、今は動かない』
「ミラベル」
マーロウは、手を出した。
「貸せ」
ミラベルは、左手を差し出した。
マーロウは、その手を両手で包んだ。冷たい金属の指を。曲がった二本を。
包んだまま、待った。
十数えた。
二十数えた。
三十を数えたところで、人差し指の付け根が、ほんのわずかに、動いた。
マーロウの手のひらの中で。
確かに、動いた。
ミラベルは、声を出さなかった。
出せなかった。
口を開けたまま、マーロウの手を見ていた。
それから、その手に、額を押しつけた。
押しつけたまま、動かなくなった。
桶の列の全員が、それを見ていた。
グロムが、兵に向かって手を上げた。
列が、しばらく止まった。誰も文句を言わなかった。
やがて、ミラベルが顔を上げた。
濡れた顔で、鼻をすすって、それから、大きな声で言った。
『あたし、終わらないかも』
市場のほうまで届く声だった。
『終わらないかもしれない! あたし、ずっと生きてるかもしれない!』
ウィラが、壁の上で両手を上げた。
ニコとミアが、波打ち際で跳ねた。
ベルが、真顔で頷いた。
『計算上は、そうなります』
その夜、納屋の前に人が集まった。
誰かが呼んだわけではない。ウィラが喋って、ミアが喋って、ニコが喋って、市場まで届いた。
ニムが酒の樽を転がしてきた。
「二回目だぞ。わしの樽が減る」
『いいじゃん。おじさん、粒の買い取りで儲けてるんでしょ』とウィラが言った。
「儲けとらん! 足が出とるわ!」
ガスが、サムとオットと並んで座っていた。
ミアとニコが、ボロの代わりにガスの犬みたいにくっついていた。
ベルは、いつもの岩ではなく、人の輪の端に座っていた。
ミラベルは、その真ん中で、左手を掲げていた。
『見て! ここ! ここが動いたの!』
ガスが、酒の椀を持ったまま身を乗り出した。
『見えん!』
「小さすぎて見えんわ!」
『でも動いたの!』
ガルドが、左手で酒の椀を持ち上げた。
『動いたなら、それでいい。おれの右手は、動かんからな』
その一言で、場が静まりかけた。
静まりかけたところへ、ガルドが続けた。
『だから、動くやつは大声を出せ。おれのぶんもだ』
ミラベルは、大声を出した。
市場じゅうに届く声で、もう一度言った。
『動いたーっ!』
人が帰ったあと、納屋の戸口に、ベルが残っていた。
一人で、星の海を見ていた。
「入るか」
『いえ』
ベルは、首を横に振った。
『私は、まだ家がありません。岩の上で足ります』
「家が要るか」
『分かりません。ですが、今日、輪の中に座りました。端でしたが、中でした』
ベルは、自分の胸に手を当てた。
『輪の中は、岩の上より、少し騒がしいです。騒がしいのは、嫌ではありませんでした』
マーロウは、その頭に手を置いた。
ベルは、置かれた手を、しばらく見上げていた。
『一〇六番。これは、何の意味ですか』
「意味はない」
『意味がないことを、人はするのですか』
「する。しょっちゅうだ」
ベルは、少し考えた。
『…では、私も、いつかします』
そう言って、岩のほうへ歩いていった。
歩きながら、一度だけ、振り返った。
『おやすみなさい』
ミラベルの真似だった。
言い方まで、そっくりだった。
第二十六章 了