第十九章
壁の答え

その夜、帝国の兵は東門の外に野営した。
二百人が、指揮官のいない軍になった。
副官が三人いたが、三人とも決められなかった。都から命令を受けたのは千人隊長一人で、千人隊長は片手を失った。命令書はない。覚えてきた言葉だけだ。
夜中に、三人の副官が、グロムのところへ来た。
帝国の軍人が、帝国の軍人に訊いた。
「…どうすればいい」
グロムは、詰所の机で、紙を一枚広げた。
『書きます』
「何を」
『事実を。千人隊長が街の者に触れようとして、倒れた。命令書は無かった。指揮権の引き継ぎも無かった。よって、部隊は都へ戻り、指示を待つ。これを、三人の署名で出す』
副官たちは、顔を見合わせた。
「…それで、おれたちは罰せられないか」
『分かりません』とグロムは言った。『ですが、紙が無いよりはましです』
副官が、署名した。三人とも。
ガルドは、街に残った。
右手は、手首から先が枯れていた。ヴェスタが、枯れた部分を落として、傷口を縫った。三十一針だった。
縫われながら、ガルドはずっと喋っていた。
『おれは、四十年、剣を振ってきた。手が一本ないと、もう振れんな』
「黙っとれ。糸が曲がる」
『黙ると、痛みを思い出す』
「痛いのは当たり前だ。手が無くなったんだからな」
ヴェスタは、根を床に吐いた。
「…生きる」
縫い終わって、そう言った。
ガルドは、笑った。
『この街の女は、みんな怖いな』
マーロウは、石畳に落ちた剣を、拾わなかった。
拾ったのは、ベルだった。
両手で持って、長いこと見ていた。
『この剣は、本部の金属です』
「知ってる」
『ですが、私の刃とは、少し違います。私の刃は、生き物を通った水を粒にします。この剣は、しません』
ベルは、剣先で、自分の指を軽く叩いた。
金属と金属の音がした。
『この剣は、ただ、硬いだけです。壁や刃のように、水を粒に変える仕掛けは入れていません。硬さだけで、一番の刃を折りました』
その夜、マーロウは壁に上がった。
手のひらを、金属に当てた。
「あの剣は、あんたのか」
『私が作りました。三百二年前です』
「何のために」
『刃を止めるために』
金属が、震えた。
『刃は、私より硬いものになる予定でした。作る前に、止める手段が要りました。ですから、刃より硬い剣を先に一本だけ作り、帝国の初代の皇帝に預けました。九十年あとに作った一番は、最初の一年で技師を九人壊しました』
「…預けた」
『私は、人を斬れません。斬る手を持っていませんので』
海の星が、壁の向こうで瞬いていた。
『本日、その剣は、あなたの街にあります。記録しておきます』
翌朝、帝国の二百は、東へ帰っていった。
旗を三本立てて、隊列を組んで、来たときと同じ速さで。
違っていたのは、先頭に馬がいなかったことだ。
ガルド・レインは、街に残った。
本人が、そう決めた。
『片手の千人隊長が帰ったら、都はおれを斬る。斬らなくても、飼い殺しだ』
ニムの店の隅で、豆を食いながら、そう言った。
『それなら、豆がうまい街で働いたほうがいい』
「働くって、何をやる気だ」とマーロウが訊いた。
『左手でできることをやる。門番でもいい』
ガルドは、左手で椀を持ち上げた。
『四十年、右で剣を振った。左でやることを探すのは、四十年ぶりの新しいことだ。悪くない』
グロムは、その扱いに三日悩んだ。
帝国の千人隊長が、帝国の街に、無職で住んでいる。前例がない。
四日目に、グロムは紙を一枚書いた。
帝国第一軍千人隊長ガルド・レインは、負傷により職務遂行不能。当人の申し出により、海壁の街にて療養。療養中の身分は、街の門番補とする。副長、グロム・ハルヴァー。
ロズリンが、それを読んで、眼鏡を押し上げた。
「門番補という役職は、帝国の決まりの本にありません」
『無い役職は、作ってはならんとも書いていません』
ロズリンは、しばらくグロムを見ていた。
それから、初めて、グロムに向かって笑った。
「…隊長に、よく似てこられました」
その夜、ミラベルは、折れた刃を伸ばし直していた。
納屋の中で、藁の上に座って、左腕を差し出して、目を閉じて。
金属の腕の線に沿って、刃が少しずつ伸びていく。ゆっくりだった。爪が伸びるくらいの速さだ。
横で、マーロウが見ていた。
『…三日はかかるね、これ』
「三日か」
『前に全部使い切ったときは、七日かかった。今回は半分だから、三日』
ミラベルは、刃から目を離さないまま言った。
『ねえ坊や。あたし、新しい言葉覚えた』
「どこで」
『ロズリンさんの本。愛してる、って書いてあった』
ミラベルは、伸びかけの刃を見ながら言った。
『愛してる』
マーロウは、藁の上で固まった。
『あれ。返事は』
「…そういうのは、簡単に言うもんじゃない」
『簡単に言ってないもん。二百十年かけて言ってるもん』
言い返す言葉が、見つからなかった。
『いいよ。待つ。あたし、待つのは得意なの。二百十年やってたから』
ミラベルは、目を開けた。
『粒、二つ余分に食べていい? 伸ばすのに使うから』
「訊くな。食え」
『訊くよ。坊やの粒だもん』
ミラベルは、帯の袋から粒を二つ出して、噛んだ。
袋の中は、五十四になっていた。
マーロウは、その数を、数えるようになっていた。
毎日、数えるようになっていた。
ウィラの言ったとおりに。
今日もいた、と思うために。
第十九章 了