海壁

第二十二章

名前を書く人

挿絵:名前を書く人

夜、納屋で、マーロウは紙を一枚出した。

ロズリンに頼んで、書いてもらった紙だ。

「読め」

『なにこれ』

ウィラが、紙を受け取った。

字を追って、途中で止まった。

止まったまま、動かなくなった。

紙には、こう書いてあった。

海壁の街の記録。ウィラ・ドーセット、十六歳。本日より、ウィラ・ケインと名乗ることを、マーロウ・ケインが認め、本人が望む場合に限り、これを記録とする。

記録係、ロズリン・ヴェイク。


ウィラの手が、震えていた。

『…これ』

「嫌なら、破っていい」

『破るわけないじゃん』

ウィラは、紙を胸に押しつけた。

押しつけたまま、しゃがみこんだ。

『なんで』

「名前がなくなったやつを、おれは何人も見た」

マーロウは、藁の上に座った。

「坑の底で、十三人死んだ。名前は一つしかなかった。おれの名前だ。ロズリンが十三回書いた」

『うん』

「母さんは、何も残さなかった。名前だけ残った」

『うん』

「おまえの母さんの名前は、誰も知らない」

ウィラの肩が、跳ねた。

「だから、せめて、おまえには二つやる。自分の名前と、おれの名前だ。どっちで呼ばれてもいい」

ウィラは、顔を上げなかった。

上げないまま、しばらく声を殺していた。

それから、紙を抱えて、マーロウの胸にぶつかってきた。

『…ばか』

「そうだな」

『三年、なんで言わなかったの』

「言う理由がなかった」

『今日はあるの?』

「ある」

マーロウは、ウィラの頭に手を置いた。

六度目だった。

「今日、おまえは十六だ。おれの母さんは、三十でおれを産んだ。十四年後、おまえが同じ歳になる。そのころ、おれはたぶん、この海の前で同じことをやってる」

『…うん』

「そのとき、おまえが違う名前で呼ばれてても、おれは困らない。だが、呼ばれる名前が一つもないのは、困る」

ウィラは、マーロウの服を握って、長いこと泣いた。

外で、ミラベルが戸口の柱にもたれて、それを聞いていた。

聞きながら、静かに泣いていた。

泣き方を覚えたばかりの女が、二人ぶん泣いていた。


その年の終わりまでに、街は、少しだけ変わった。

市場の端に、台が一つ残った。粒を調べる台だ。並ぶ人は減ったが、途切れはしなかった。

ニムの机では、空の粒が売り買いされるようになった。安いが、値はついた。

壁の上の灯りは、全部点いている。毎朝、マーロウが作る粒と、毎朝、海の中のあいつが水に戻す粒が、釣り合っている。

ロズリンの帳面は、厚くなった。

禁止区の南の岩のそばに、小さな石が一つ置かれた。

石には、何も彫っていない。

彫る必要がなかった。名前は、帳面にある。


年の最後の日、マーロウは壁の上にいた。

ミラベルが隣にいた。ウィラが、その向こうにいた。ニコとミアが、もっと向こうで足をぶらぶらさせていた。ベルが、いちばん端で、海を見ていた。

西の海が、赤くなっていた。

壁の上の線だけが、先に燃える。

『来年さぁ』とミラベルが言った。

「なんだ」

『共和国の刃が四本、暴れるんでしょ』

「本部はそう言ってる」

『都の真下からは、腹を空かせたやつが出てくるんでしょ』

「掘り当てたらな」

『シビルさんとドラグさんは、その都に向かってるんでしょ』

「向かってる」

ミラベルは、足をぶらぶらさせた。

『けっこう、まずいね』

「まずいな」

『あたし、刃が一本しかないよ』

「伸びるんだろ、そのうち」

『伸びた。やっと、今日、伸びきった』

ミラベルは、左腕から刃を出した。

夕日の赤い線が、刃の上を走った。

『よし。元どおり』


ウィラが、向こうから声を張った。

『ねえ! 来年、あたしも行くからね!』

「どこへだ」

『どこでも! 南でも、都でも、どこでも! マーロウが行けないなら、あたしが行く!』

「…おまえな」

『あたし、荷車は一番なんだから』

マーロウは、何か言い返そうとして、やめた。

やめて、笑った。

笑ってから、ミラベルの手を取った。

曲がった二本の指ごと、いつもの形で。

『ねえ坊や。一個だけ、お願いしていい?』

「言え」

『あたし、いつも言ってるでしょ。好きって。愛してるって』

「言ってるな。毎日な」

『一回でいいから、坊やの口から聞きたい』

壁の上の風が、止まった。

ウィラが、向こうで聞こえないふりをしていた。耳は、明らかにこちらを向いていた。

マーロウは、赤い海を見た。

坑の底。三十日の梯子。白い部屋。畑の二万人。母親の十四日。

そのどれよりも、今のほうが、言葉が出てこなかった。

「…好きだ」

ミラベルが、固まった。

「あんたが好きだ。二百十年ぶんまとめて好きだ。これでいいか」

ミラベルの顔が、耳まで真っ赤になった。

それから、両手で顔を覆って、壁の上でごろりと転がった。

『だめ。無理。心臓が止まる。あたし粒で動いてるのに止まる』

「止まるな」

『止まらないけど止まる!』

ウィラが、向こうで吹き出した。

ニコとミアが、手を叩いて笑った。

ベルが、いちばん端で、律儀に首を傾げていた。

『坊や』

「なんだ」

『あたし、いま、すごく幸せなんだけど』

「そうか」

『こういうとき、なんて言えばいいの。二百十年、言ったことないから、分かんない』

マーロウは、赤い海を見ていた。

それから、言った。

「おはよう、でいい」

『今、夕方だよ』

「明日の朝、そう言え」

ミラベルは、目を丸くした。

それから、声を上げて笑った。

『言う。明日も、明後日も、ずっと言う』

海の星が、暗くなりはじめた海の底で、一つずつ、灯りはじめていた。

第二十二章 了