海壁

第二十九章

行ってしまう

挿絵:行ってしまう

三日後の朝、海が引いた。

大きく引いた。

禁止区の白い地面が、五十歩ぶん広がった。乾いた底が、朝日の下に現れた。そこに、去年の槍の折れた先や、鎖の切れ端や、空船から落ちた鉄の板が転がっていた。

人が、壁の上に集まった。

誰も、声を出さなかった。

沖のほうで、星の塊が、ゆっくりと持ち上がっていた。

四十メートルを超えていた。去年、初めて見たときと同じ高さだった。

それが、南を向いていた。


ニコが、走った。

壁の上から縄梯子へ、縄梯子から禁止区へ、禁止区から乾いた底へ。

裸足だった。

マーロウが追いかけた。ウィラが追いかけた。

ニコは、乾いた底の真ん中で止まって、両手を広げた。

『行くの!?』

声が、裏返っていた。

『行っちゃうの!?』

星の塊が、止まった。

それから、細い水の腕が一本、伸びてきた。

ニコの前で止まって、揺れた。

触れなかった。いつものように、触れなかった。

ニコは、その腕に、自分から額を押しつけた。


長いあいだ、そうしていた。

やがて、ニコが顔を上げた。

顔じゅうが濡れていた。

『…南の下に、いるんだって』

「下?」

『地面の下。ずっと深いとこ。あいつと同じのが、もう一人いるんだって』

ニコは、しゃくりあげながら言った。

『ずっと聞こえてたけど、遠すぎて分からなかったって。でも、最近、音が届くようになったって』

マーロウの背中が、冷えた。

「…掘ってる音か」

『あいつ、そう言ってる』

ニコは、水の腕を見上げた。

『叩く音が、下から返ってくるようになったって。返ってくるってことは、向こうが叩き返してるってことだって』

乾いた底の上を、風が吹いた。

『閉じ込められてるんだって。三百年。誰も名前呼んでくれないまま』

ニコの声が、途中で崩れた。

『だから、行くって』


ウィラが、ニコの肩をつかんだ。

「待って。待ってよ。行ったら、この街どうなるの」

『分かんない』

「水は? 草は? みんなの灯りは?」

『分かんないよ!』

ニコが、初めて、ウィラに向かって大声を出した。

『ぼくだって、行かないでって言った! ずっと言ってた! でも、あいつ、待ってる人がいるんだよ!』

ウィラの手が、止まった。

ニコは、両手で顔をこすった。

『三百年、閉じ込められてる人がいて、名前も呼ばれてなくて、それをあいつは知っちゃったんだ』

声が、小さくなった。

『それ聞いて、行くなって、ぼく、言えない』

マーロウは、その場に立っていた。

坑の底を思い出した。

九年、誰にも待たれずに水を下げていた男を。

その男を迎えに行くと決めた日の、自分の声を。

「…言えないな」


星の塊が、動いた。

南へ。

ゆっくりと、海の中を。

壁の上から、街の人間が見ていた。

誰かが泣いた。誰かが手を振った。ニムは何も言わずに秤を抱えていた。ヴェスタは根を噛んだまま、じっと見ていた。

ガスが、三本の指で目を押さえた。

『…礼くらい言わせろよぉ』

潰れた声だった。

『草、生えたんだぞ。おれたちの街に、草、生えたんだぞ』

海の星は、南へ遠ざかっていった。

夕方には、地平線の手前に、細い光の帯だけが残った。

夜には、それも見えなくなった。


その夜、街は静かだった。

祭りの夜と同じくらい人が出ていたのに、誰も騒がなかった。

市場の台の前で、ロズリンが帳面を開いていた。

書く手が、止まっていた。

「…書けません」

ウィラが、横に座った。

『なんて書けばいいか、分かんないんでしょ』

「分かりません。事実は書けます。海が引いた。個体が南下した。水位が下がった。それは書けます」

ロズリンは、筆を置いた。

「ですが、それだけ書いたら、嘘になる気がします」

ウィラは、しばらく黙っていた。

それから、筆を取って、帳面の端に一行書いた。

ありがとうって、みんな言えなかった。

ロズリンが、その一行を見た。

「…それは、記録ですか」

『記録だよ。あたし、見てたもん』

ロズリンは、その行を消さなかった。


ニコは、その夜、納屋の前に座っていた。

膝を抱えて、南を見ていた。

マーロウが横に座ると、ニコは小さく言った。

『ぼく、置いていかれたのかな』

「追ってるだけだろ」

『え』

「南へ行くんだろ、あいつは。おまえも南へ行けばいい」

ニコが、顔を上げた。

『…行っていいの?』

「おれが決めることじゃない」

マーロウは、星のない海を見た。

「行きたいかどうかは、おまえが決めろ。連れていけるかどうかは、おれが決める」

ニコは、両手で顔を拭いた。

拭いてから、はっきり言った。

『行きたい』

足音がして、ウィラが毛布を抱えて走ってきた。

眠れなかったのは、ウィラも同じだったらしい。

ウィラは、毛布をニコの肩にかけて、隣に座った。

「言っとくけど、あたしも行くからね」

『…ウィラも?』

「弟だけ行かせる姉ちゃんは、いないの」

マーロウは、何も言わなかった。

言わずに、二人の頭の向こうの、南の暗い海を見ていた。


翌朝、壁の上から海を見た。

昨日まで星があった場所に、ただの黒い水があった。

朝日が当たると、それは灰色になった。

三百年、この街の人間が見てきた海と、同じ色だった。

ウィラが、壁の縁に立って、長いこと南を見ていた。

それから、振り返って言った。

『あたし、あの光、一年も見てないんだよね』

「一年も見てない」

『一年しか見てないのに、無いと変なの』

ウィラは、海を指さした。

『あそこ、星があったんだよ。ほんとにあったんだよ』

「あった」

『みんな忘れないよね』

マーロウは、答えなかった。

答えの代わりに、ロズリンのほうを見た。

ロズリンは、壁の縁で帳面を開いていた。

書いていた。

忘れないための仕事をする人間が、この街には一人いる。

第二十九章 了