第十六章
おはよう

マーロウは、しばらく黙っていた。
それから、訊いた。
「おれが、あんたに腹を立ててると分かるか」
『分かりません』
「分からないのか」
『腹を立てるという状態を、私は持っていません。ただ、あなたが次に何を言うかは、およそ予測できます』
「言ってみろ」
『売るのをやめろ、と言います』
「…売るのをやめろ」
『やめません』
即答だった。
『やめれば、共和国は自分で作ろうとします。共和国の技師は、私より下手です。下手な者が作った刃は、暴れます。二百十年前、私もそうでした』
マーロウは、その言葉を、噛んだ。
「…一番は、暴れたのか」
『最初の一年で、本部の技師を九人壊しました。九人目が、オスカー・グリムです』
マーロウの背中が、冷たくなった。
「…オスカーは、生きてただろ。名前をつけてくれたって」
『壊れた技師のうち、一人だけ、戻りました。腕を一本失いましたが、戻りました。戻って、毎朝、挨拶を始めました』
海の星が、壁の向こうで、ゆっくり瞬いていた。
『一番は、この記録を知りません。私は、訊かれていませんので』
十日が過ぎた。
朝は、桶の列。昼は、ロズリンの台。夜は、深い水を汲みに海へ。
そのあいだに、街は少しずつ形を変えていった。
ニムの机には、毎日人が並んだ。空の粒を、安く買い取る机だ。売った金で飯を食う者がいた。売らずに持ち帰る者もいた。ロズリンが、両方を帳面に書いた。
ヴェスタの店の棚に、瓶が増えた。水を入れた瓶に、川の跡から抜いてきた草が挿してある。客が「何だそれは」と訊くたびに、ヴェスタは「草だ」と答えた。
ニコは、毎朝、海の水を五口飲んだ。ウィラとミアが数えた。
四日目に、ニコが口をとがらせた。
『二人とも、姉ちゃんみたいな顔するのやめてよ』
「みたいじゃないよ。姉ちゃんなの」とウィラが言った。
『いつから』
「ニコが海の水を飲んじゃった日から。あたしが一番上。ミアが二番目。ニコが一番下」
『ぼく、頼んでない』
「頼まれてなるもんじゃないの」とミアが言った。「あたしだって、兄ちゃんに頼んで妹になったわけじゃないもん」
ニコは、言い返そうとして、やめて、五口目を飲んだ。
「五」
ウィラとミアの声が、重なった。
ガスは、毎朝サムとオットに一滴ずつ落とした。治療は、あと三十日ほどで終わる。
そして、納屋の灯りは、毎晩早く消えるようになった。
隠す気は、どちらにもなかった。
マーロウは、朝の列で桶を受け取るとき、必ずミラベルの指に触れた。
ミラベルは、桶を運ぶ途中で、意味もなくマーロウの背中を一度叩いていく。叩いて、走って、戻ってきて、また叩く。
昼飯のとき、ミラベルはマーロウの椀から豆を三つ取る。マーロウはミラベルの椀から芋を一つ取る。
ブリンが最初の三日は囃し立てた。四日目からは、飽きた。
ガスは十日たってもまだにやにやしていた。
納屋に戻ると、ミラベルは必ず、両手を広げて待っている。
『キスして』
「…毎晩か」
『毎晩。だって足りないんだもん』
「二百十年、平気だったろ」
『知らなかっただけ。知ったらもう無理。坊やのせいだからね』
マーロウは、溜め息をついた。
溜め息をついてから、屈んだ。
ミラベルは、そのたびに目を閉じるのが少し遅れて、鼻がぶつかって、笑った。
『下手っ』
「おまえが動くからだろ」
『動くよ。うれしいと動くの』
ベルだけが、首を傾げ続けていた。
『一〇六番と一番は、同じ場所で寝るようになったそうですね』
「…そうだな」
『なぜですか』
「なぜだと思う」
ベルは、長いこと考えた。
『効率です。灯りが一つで済みます』
マーロウは、笑った。
笑ったのは、母親を埋めてから、初めてだった。
ウィラは、四日目に、はっきり言った。
市場の裏で、マーロウを捕まえて、腰に手を当てて。
『あたしは、反対しない』
「そうか」
『でも、一個だけ言う』
ウィラは、指を一本立てた。
『あの人のこと、ちゃんと数えてあげて』
「…数える?」
『あと何日、って数えるのが嫌だから断ったんでしょ。ミラベルから聞いた』
マーロウは、答えなかった。
『数えていいと思う。数えて、毎日、今日もいた、って思えばいいじゃん』
ウィラは、鼻をすすった。
『あたし、リーネさんのこと、十日しか知らなかった。十日ぶん、全部覚えてる。数えてたから覚えてるんだよ』
マーロウは、その頭に手を置いた。
五度目だった。
その夜、マーロウは、ミラベルにオスカー・グリムの話をした。
本部が言ったことを、そのまま。
最初の一年で、技師が九人壊れたこと。九人目がオスカーだったこと。腕を一本失って、それでも戻ってきたこと。
ミラベルは、藁の上に座って、聞いていた。
聞き終わって、しばらく動かなかった。
『…あの爺さん』
声が、掠れていた。
『あたし、爺さんの腕、なんで片方ないのか、訊いたことあるんだよね』
「なんて言われた」
『昔、機械に挟まれたって』
ミラベルは、両手で顔を覆った。金属の手も、そうでないほうの手も。
『機械じゃん。あたし、機械じゃん』
マーロウは、その背中に手を当てた。
ミラベルは、長いこと泣いた。
泣きながら、途中で一度だけ、笑った。
『…それでもさ。毎朝、おはようミラベルって言ったんだよ、あの人』
「言ったんだな」
『十年。毎朝』
ミラベルは、顔を上げた。
濡れた顔で、にっと笑った。
『じゃあ、あたしも言う。毎朝』
「誰に」
『坊やに決まってんでしょ』
翌朝、ミラベルはマーロウより先に起きた。
納屋の戸口に立って、こちらを振り返って、大きな声で言った。
『おはよう、マーロウ』
坊や、ではなかった。
初めて、名前で呼ばれた。
マーロウは、藁の上で起き上がって、しばらく、その顔を見ていた。
「…おはよう、ミラベル」
ミラベルの顔が、ぱっと赤くなった。
『うわ。だめだ。これ、毎朝は心臓が持たない』
「毎朝って言ったろ」
『言った。言ったけど』
ミラベルは、両手で顔を扇ぎながら、外へ走り出ていった。
第十六章 了