第十三章
名前の欄

夜明け前に、リーネの息が変わった。
浅くなった。それから、間が空くようになった。
マーロウは、岩の上で、母親の顔を見ていた。
「母さん」
返事は、なかった。
「母さん。リーネ・ケイン」
リーネの瞼が、動いた。
うっすら開いた目が、空を見た。空から、ゆっくりと、こちらへ動いた。
灰色の目が、マーロウを見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、口が動いた。
『…マー、ロウ』
マーロウの喉から、音が漏れた。
『マーロウ。あたしの子』
リーネの手が、少し持ち上がった。
持ち上がって、止まった。
触れられない手だった。最後まで、触れられない手だった。
マーロウは、その手のすぐ横に、自分の手を置いた。
触れないまま。一センチだけ離して。
『…間に合った』
リーネが言った。
『忘れる前に、間に合った』
それが、最後だった。
日が昇った。
海の星が、朝の光の中で、少しずつ薄くなっていった。
マーロウは、動かなかった。
母親の横で、一センチ離した手を、置いたままだった。
ベルが、立ち上がった。
音もなく歩いてきて、マーロウの後ろで止まった。
『一〇六番』
「…なんだ」
『泣かないのですか』
マーロウは、答えなかった。
答えられなかった。
ベルは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
『私は、泣き方を知りません。ですが、今、胸の内側が重いです。これは、何ですか』
マーロウは、朝の海を見ていた。
「…おれが知りたい」
その日の昼、リーネ・ケインは、禁止区の南の岩のそばに埋められた。
帝国の決まりでは、禁止区に人を埋めてはいけない。
グロムが、書類にこう書いた。
当該の遺体は、街の外で発見されたため、発見場所に埋葬した。壁の外は帝国の管轄外である。副長、グロム・ハルヴァー。
ドラグが、それを読んで、何も言わなかった。
セドリックが、後ろから覗き込んで、紙に何かを書いた。
そして、こう言った。
『正しく書かれた紙です』
その日の夕方、ロズリンが納屋に来た。
紙束を抱えていた。
『マーロウ・ケインさん』
「…ああ」
『一行、書かせてください』
ロズリンは、返事を待たずに、藁の上に膝をついて、紙を広げた。
筆を出した。
『名前の欄は、どうしますか』
マーロウは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「リーネ・ケイン」
ロズリンが、書いた。
「…歳は、書けるか」
『書けます』
「五十九だ。おれが二十九だから、産んだのが三十なら、五十九になる」
ロズリンの筆が、止まった。
『見た目は、三十くらいでした』
「そうだ」
『…どちらを書きますか』
マーロウは、少し考えた。
「両方だ。五十九歳。見た目は三十。両方書いてくれ」
ロズリンは、両方書いた。
『もう一行、書きたいことがあります』
「言え」
『私が見たことです』
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
『この人は、十一日目の夜、市場で融合兵十二人を止めました。獅子の翼を落としました。獅子の喉に手をかけて、そこで止めました。街の人間は、一人も死んでいません』
「…書いてくれ」
『それから』
ロズリンの筆が、少し震えた。
『二十九年前、腹に子を宿したまま、荒れ地を三十一日歩きました。これは、ウィラさんたちが本人の口から聞きました。聞いた者は三人です』
「…書いてくれ」
ロズリンは、書いた。
書き終えて、紙を閉じた。
『帳面の名前の欄は、これで、また一つ埋まりました』
そう言って、立ち上がった。
戸口で一度止まって、振り返らずに言った。
『私は、記録係です。泣くのは、仕事のあとにします』
出ていく足音が、途中から、走る足音になった。
夜、街の灯りが点いた。
この街の灯りは、粒で点いている。ニムが数えたところでは、三百八十ほど。そのうちいくつが空なのかは、まだ全部は分かっていない。
マーロウは、納屋の戸口に座っていた。
膝の上に、何も持っていなかった。
上着の内側には、まだ二つ入っている。十三人の番号を書いた紙と、ウィラの石の板。
今日、そこに一つ増えるはずだった。
増えなかった。
母親は、何も残さなかった。手紙も、形見も、髪の一房も。触れたものは全部、黒くなって崩れる体だったからだ。
残ったのは、名前だけだった。
リーネ・ケイン。
ロズリンの帳面の、一行だけ。
ウィラが来た。
戸口の外に立って、中に入らなかった。
『…ごはん』
椀を持っていた。
「いらない」
『食べて』
「いらないって言ってんだろ」
ウィラは、椀を戸口の土間に置いた。
置いて、その場に座った。
中には入らずに、戸口の外に。
『入らないよ。入らないから、ここにいる』
マーロウは、何も言わなかった。
しばらくして、ウィラが小さく言った。
『あたしのお母さんはね、あたしが五つのときに死んだの』
マーロウは、顔を上げた。
三年一緒にいて、初めて聞く話だった。
『覚えてるのは、声だけ。顔は覚えてない。名前も知らない。誰も教えてくれなかったから』
ウィラは、膝を抱えた。
『だからね。マーロウは、いいなって思った。名前、知ってるじゃん』
夜風が、納屋の隙間から入ってきた。
『ロズリンさんが書いたんでしょ。帳面に』
「…書いた」
『じゃあ、もう消えないね』
ウィラは、立ち上がった。
『明日、豆持ってくる。今日のは食べなくていい』
歩いていく背中を、マーロウは見ていた。
十五歳の背中だった。
三年前、市場で勝手についてきた子の背中だった。
「…ウィラ」
ウィラが止まった。
「ありがとうな」
振り返らずに、ウィラは手を上げた。
上げたまま、走っていった。
第十三章 了