海壁

第十八章

紙を読まない人間

挿絵:紙を読まない人間

ドラグは、その一行を、長いこと見ていた。

『…書いて、あるな』

「書きました。今朝、書きました」

ロズリンは、顔を上げなかった。

「書かなかったことの欄です。書かないと決めていた欄です。それでも、書きました。だから、これは、書いたことになります」

『…ああ』

「言葉では言いません。言ったら、隊長が困るからです。書いてあるのを、読んでもらっただけです」

ロズリンの手が、震えていた。

ドラグは、紙を返した。

返す手が、ロズリンの手に触れた。

一度だけ、包むように。

『戻る』

「…はい」

『二か月だ。長くて七十日』

「はい」

『そのあいだ、帳面を頼む』

ロズリンが、顔を上げた。

眼鏡の奥が、真っ赤だった。

「…隊長」

『なんだ』

「その言い方、もう三回目です」

ドラグは、少しだけ、口の端を動かした。

笑ったのだと、マーロウには分かった。

『三回とも、戻ってきた』


荷車が、東へ出た。

巨人が残していった濡れた道を、南へ折れるところまで。

ドラグが御者台。シビルが横を歩いた。ブリンが荷台で豆の袋に寄りかかり、ボロがその膝で寝ていた。

ロズリンは、門の外に立って、見送った。

荷車が見えなくなってから、そこにしばらく立っていた。

ウィラが横に来て、手を握った。

「…泣いていいですか」と、記録係が言った。

ウィラは、頷いた。

『仕事、終わってるもんね』


十二日後だった。

東の地平線に、土煙が上がった。

荷車ではなかった。人の列だった。

馬が四十。歩兵が二百。旗が三本。帝国の赤い印。

先頭の馬に乗っていたのは、大きな男だった。

兜を脇に抱えている。頭は禿げ上がっていて、首が太い。顔に、古い切り傷が三本。人間だった。

東門の前で馬を止めて、男は、街を見渡した。

それから、大声で言った。

『帝国第一軍、千人隊長、ガルド・レイン』

よく通る、腹から出た声だった。

『命令を読む。粒を新たに生む者を、都へ連行する。抵抗する者は、その場で斬る。以上だ』

紙は、持っていなかった。

覚えてきた言葉を、そのまま吐いただけだった。


マーロウは、市場の入口に立った。

後ろに、街の人間がいた。

「断る」

『だろうな』

ガルドは、馬から降りた。

降りると、なお大きかった。ドラグより、まだ頭半分高い。

『おれは、書類の男じゃない。前に来た痩せたのとは違う』

背中から、剣を抜いた。

長い剣だった。刃が、昼の光の下で、鈍く光っていた。

その光に、見覚えがあった。

継ぎ目のある、細い線。錆びない金属。

『帝国の宝だ。三百年前から、都の宝物庫にある。名前は無い。切れんものが無いから、名前が要らん』

ミラベルが、マーロウの前に出た。

刃を伸ばした。

ガルドは、それを見て、初めて笑った。

『そいつだ。そいつを試したかった』


ミラベルが跳んだ。

速かった。融合兵の爪を避け、獅子の脚を叩いたときと同じ速さだった。

刃と剣が、当たった。

甲高い音がした。

ミラベルの刃が、半ばから折れた。

折れた先が、宙を舞って、石畳に落ちた。

ミラベルが、後ろへ跳んで、着地した。

折れた刃の先を見て、自分の腕を見て、それから、笑った。

『…あっはは。折れた』

「ミラベル」

『平気。伸ばし直せる。時間かかるけど』

ガルドは、剣を肩に担いだ。

『二百十年前の刃だな。噂は聞いている』

「あんた、これ、なんだか知ってて持ってるの?」

『知らん。切れることだけ知っている』

ガルドは、剣先を市場の入口へ向けた。

『粒を生む男。来い。来なければ、まず一人斬る。斬る相手は、おれが選ぶ』

その剣先の向こうに、ウィラが立っていた。


時間が、遅くなった。

マーロウには、そう感じられた。

剣先の向こうに、ウィラがいる。十五歳の、赤茶の髪の、前歯の欠けた子どもがいる。

三年前、市場で勝手についてきた子だ。

坑の底から三十日かけて登ったのは、この子のいる街に戻るためだった。

マーロウは、右手で、左の手のひらを裂いた。

爪で、深く。

血が出た。

歩きだした。

「おれだ」

『そうか』

ガルドが、剣を下ろした。

『話が早い』


『やめて!』

ウィラの声だった。

走り出そうとしたウィラを、ミアとニコが、両側から押さえた。

マーロウは、振り返らなかった。

ガルドの前まで、五歩。

三歩。

「一つ、条件がある」

『言え』

「縄はかけるな。歩く」

『いいだろう』

「もう一つ」

「この街の人間には、指一本触れるな」

ガルドは、少し考えた。

『触れんと約束しよう。おまえが大人しく歩くならな』

マーロウは、頷いた。

頷きながら、血の出ている左手を、体の横で開いた。

ガルドの右手が、剣の柄を握っていた。

その手の甲に、汗が浮いていた。


ガルドが、マーロウの肩に手を置こうとした。

置かせなかった。

マーロウのほうが、速かった。

血の出ている左の手のひらで、ガルドの手首をつかんだ。

汗で濡れた、むき出しの肌を。汗は、毛穴の奥で体の水とつながっている。乾いた肌なら通らない血が、汗を伝って中へ届いた。

ガルドの目が、見開かれた。

手首から先が、乾いていった。

音もなく、色が変わって、縮んで、指が枯れ枝のようになった。

剣が、石畳に落ちた。

ガルドは、声を上げなかった。

痛みを堪えたのではない。声が出る前に、膝から崩れたのだ。

落ちた剣の横に、黒い粒が一つ、転がっていた。

桶一杯ぶん。

それが、千人隊長の右手だった。


二百の兵が、動いた。

だが、前へは出なかった。

一歩、下がった。

最前列の兵が、剣を落とした。

落とした音が、二つ、三つ、十と続いた。

グロムが、壁の上から叫んだ。

『帝国第一軍に告ぐ! 千人隊長は倒れた! 指揮権は誰にある!』

答えは、なかった。

ガルドは、石畳に膝をついたまま、自分の枯れた右手を見ていた。

それから、顔を上げた。

『…粒に、なったのか』

「なった」

『おれの手が』

「桶一杯ぶんだ」

ガルドは、石畳の上の黒い粒を見た。

しばらく、見ていた。

それから、笑った。

腹から出る、大きな笑い声だった。

『なるほどな。紙を読んでおくべきだった』

第十八章 了