第二十八章
春の海

春は、数字で来た。
ロズリンが、毎晩つけている水位の帳面を持って、桶の列に降りてきた。
『二十日ぶんを、並べます』
紙を、乾いた地面に置いた。
『十日前まで、水位は変わらずでした。九日前、指一本ぶん下がりました。八日前、また指一本。以後、毎日下がっています』
「合計は」
『手のひら二枚ぶんです』
マーロウは、波打ち際を見た。
禁止区の白い地面が、広くなっていた。去年の冬、壁の根元まで来ていた波が、十歩ぶん遠ざかっていた。
「粒はどうだ」
『増えています。あいつが、水に戻す量が減っています』
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
『釣り合いが、崩れはじめています』
ニコは、その日も海に入っていた。
腰まで浸かって、両手を水の上に置いて、じっとしていた。
マーロウが波打ち際から呼ぶと、ニコは振り返らずに言った。
『聞こえてる。でも、返事が短いの』
「短い?」
『うん。いつもは、寄せて、引いて、の間に何個も返事くれるのに、今日は一個だけ』
ニコの肩が、少し震えていた。
水が冷たいからではなかった。
『それに、ずっと南を向いてる』
その夜、壁の上に全員が上がった。
灯りを消して、目を慣らして、海を見た。
星の海は、いつもどおり光っていた。
ただ、光の形が違っていた。
いつもは、壁に沿って、北から南まで、薄く平らに広がっている。
今夜は、南の端に、星が集まっていた。
まるで、袋の中身が片側に寄ったように。
『…寄ってるね』とミラベルが言った。
「寄ってる」
『南に』
「南にだ」
ベルが、壁の縁で、星の位置を数えていた。
『昨日より、四百歩ぶん南です』
「四百歩」
『一昨日は、二百歩でした』
数字は、増えていた。
止まる気配が、なかった。
その報せは、昼のうちに市場を回った。
海が下がっている。
ニムの店の前に、人が集まった。粒を持って集まったのではない。ただ、集まった。
「下がったら、どうなる」と誰かが訊いた。
ニムは、秤の向こうで唸った。
「知るか。三百年、海は上がりも下がりもせんかった」
別の誰かが訊いた。
「灯りは点くのか」
ニムが、秤の縁を指で叩いた。
「点く。粒はまだある」
三人目が訊いた。
「草は?」
ニムは、答えなかった。
答えの代わりに、棚から干した杏を出して、訊いた男の手に押しつけた。
「食え。糖が足りとらん顔しとる」
川の跡へ、大人たちが見に行った。
水は、まだ流れていた。細くなってはいたが、流れていた。
草は、緑だった。
ウィラとミアとニコが、その縁にしゃがんで、指先だけ水に浸していた。手首までは浸けない。三人とも、それはもう知っていた。
「…減ってるね」とミアが言った。
『減ってる』
「枯れるのかな、これ」
ニコは、答えなかった。
答えずに、水の中の指を、じっと見ていた。
その夜、マーロウは壁の上でミラベルの横に座った。
ミラベルは、珍しく黙っていた。
『ねえ坊や』
「なんだ」
『あいつがいなくなったら、坊やの仕事、どうなるの』
「分からん」
『粒、作らなくてよくなるの?』
「分からん」
『ずっとここにいなくてよくなるの?』
マーロウは、答えなかった。
そこまで考えて、考えるのをやめていた。
考えると、母親を埋めた岩の横に、自分が縛られている理由が、ゆらぐからだった。
ミラベルは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、肩に頭を乗せた。
ベルは、その日から、海の端に杭を打つようになった。
朝、波が届いたところに杭を一本。夕方、また一本。
三日で、杭は六本になった。
六本は、少しずつ、沖のほうへ並んでいた。
『一日に、手のひら一枚ぶん。昨日より速いです』
「速くなってるのか」
『はい。個体が遠ざかるほど、戻す量が減ります。残った粒は、粒のままです』
ベルは、杭の列を見ていた。
『粒は増えます。水は減ります。三百年前に戻ります』
マーロウは、その言葉を、長いこと噛んでいた。
戻る、というのが、いちばん正確だった。
去年、この街は水を得た。草が生えた。子どもが初めて緑を触った。
それが、元に戻る。
「…戻るだけか」
『戻るだけです』
ベルは、首を傾げた。
『ですが、戻るだけ、という言い方を、人は嫌がります。なぜですか』
「一度もらったからだ」
マーロウは、杭の列を見た。
「もらう前と、もらって取り上げられた後は、同じ量でも別物だ」
四日目の朝、桶の列が短くなった。
作る粒の数を、半分に減らしたからだ。
戻す相手がいない以上、作りすぎても意味がない。ロズリンがそう計算した。
マーロウは、半分の数だけ手を切った。
切る回数が減った。
ただそれだけのことなのに、腕が軽くて、落ち着かなかった。
その朝、マーロウは手を切らずに済んだ。昼、ミラベルが隣に来て、そっと手を握った。
人前で。
『血、出てないね』
「出てない」
『じゃあ、握れるね』
ミラベルは、握った手を、少し持ち上げた。
『今まで、朝は握れなかったもん』
マーロウは、その手を見た。
毎朝血が出ていたから、朝は誰にも触れなかった。
それが、今日はない。
海が引いたから、だった。
「…妙だな」
『なにが』
「良くないことが起きて、いいことが一つ増えた」
ミラベルは、目を丸くした。
それから、両手でマーロウの手を包んだ。
『じゃあ、あたしは、そのいいことのほうを覚えとく』
第二十八章 了