第四章
結び目

翌朝も、桶の列は並んだ。
七隻が去っても、海と粒の釣り合いは待ってくれない。マーロウは波打ち際で手を切り、桶に手を入れ、粒を籠に落とした。
リーネは、乾いたところの端に座って、それを見ていた。
ウィラが、その横に座っていた。少し離れて。近づいていいのか、決めかねている距離だった。
昼前に、籠が一つ満ちた。
ニムが、壁の上から降りてきて、籠を覗いた。
七本の指で粒を一つつまんで、日にかざして、唸った。
『…いい粒だわ』
「何が違うんだ」
『明るいんだ、新しい粒は。灯りに入れりゃ、すぐ分かる。じじいの店の棚にある粒とは、値が三倍は違う』
「なんでだ」
『知るか』
ニムは粒を籠に戻した。
『百六十年、商売しとるが、理由は誰も知らん。新しいのは明るい。古いのは暗い。それだけだ』
『理由なら、知ってる』
リーネだった。
全員が振り返った。
リーネは、立ち上がって、籠のそばまで歩いてきた。粒を一つ、指でつまみ上げた。
『六年、本部の部屋で眠らされてたって言ったでしょ。ずっと眠ってたわけじゃないの。ときどき起こされて、訊かれた。その合間に、あそこの声が、勝手に喋ってた』
リーネは、つまんだ粒を、日にかざした。
『これはね、結び目なの』
「…結び目」
『世の中には、目に見えなくて、触れなくて、すり抜けていくものが、いっぱい漂ってる。空気よりずっと多い。あたしたちが触れる物なんて、全部合わせても、二十分の一しかない』
ウィラが、口を開けた。
「残りは?」
『引き合うほうが二十七。押し広げるほうが六十八。本部はそう言ってた』
「…にじゅうしち」
『数はどうでもいいの。大事なのは、見えないものが、うんと多いってこと』
『そいつは、壁も、人も、山も、素通りしていく。捕まえようとしても、網の目から水が出ていくみたいに、抜けちゃう』
リーネは、粒をもう一度、日にかざした。
『生き物を通った水だけが、その網になる。理由は、本部も分かってない。分かってるのは、生き物の体を通った水には、並び方の癖がつく、ってことだけ』
「そこに、血か」
『そう。あなたの血が、形を決める。形が決まると、すり抜けてたものが、その場で縛られて、結び目になる』
リーネは、粒をマーロウの手のひらに落とした。
『水は、その代価に消える。桶一杯ぶん。井戸の水でも雨でも駄目なのは、網になってないから』
マーロウは、手のひらの粒を見た。
三か月前まで、自分にとっては、ただの黒い米粒だった。
今は、この世界の値段の全部だった。
『減らない理由も、それ』
リーネは、指で小さく輪を作った。
『結び目から、少しずつ漏れてるの。漏れてる分が、灯りになったり、変換器を動かしたりする。漏れてるだけだから、結び目そのものは減らない』
「じゃあ、なんで十年で灯りが消える」
『ゆるむの』
リーネは、輪にした指を、少しほどいた。
『使えば使うほど、結び目がゆるむ。ゆるむと、漏れが細くなる。粒は残ってる。でも、もう明るくならない』
ニムが、口を開けたまま固まっていた。
「…おい。じゃあ、うちの棚のあれは」
『ゆるんだ粒。何十年も回ってきたやつ』
「値がつかん、ということか」
『つくよ。ただの飾りにはならない。細くても漏れてはいるから』
ニムは、自分の指を七本とも見た。
「…百六十年、暗い粒を安く買って、明るい粒を高く売ってきたわ。理由も知らんで」
『商人の勘って、そういうものでしょ』
リーネは、少しだけ笑った。
ロズリンが、紙を広げていた。
いつの間にか筆を持って、リーネの言葉を全部書き取っていた。
「一つ、うかがいます」
ロズリンは、リーネを見ていた。
「完全にほどいたら、どうなりますか。漏らすのではなく、結び目を全部」
遠くで、波の音がしていた。
リーネは、しばらく黙っていた。
『それも、本部が言ってた』
「数字で、覚えていますか」
『覚えてる。壁の灯り千個を、二千八百年ともせるって』
ロズリンの筆が、止まった。
「…千個を、二千八百年」
『粒、一つでね』
ロズリンは、筆をもう一度動かした。動かして、また止めた。
それから、眼鏡を押し上げた。
「火薬に直すと、二十万トンです」
誰も、何も言わなかった。
「人が一生に食べる飯に直すと、三千人ぶんです」
ロズリンは、顔を上げた。
「この街の人が、一人残らず、一生食べても、まだ余ります」
マーロウは、自分の手のひらの粒を見た。
これを、毎朝、千個作っている。
「…ほどけるのか」
『ほどけないよ』
リーネは、即答した。
『少なくとも、今は誰も知らない。本部も、ほどき方は持ってない。持ってたら、とっくに使ってる』
「今は、か」
『うん。今は』
リーネは、海のほうを見た。
その横顔が、ほんの一瞬、遠かった。
「…母さん」
『ん?』
「いや」
マーロウは、粒を籠に落とした。
音がした。
ただの黒い米粒が、籠の中で一つ、転がった音だった。
第四章 了