海壁

第九章

粒を出せ

挿絵:粒を出せ

夕方、二人はまだ水道橋の上にいた。

海壁の上の線が、燃えはじめた。

リーネが、それを見ていた。

見ながら、ふいに言った。

『ねえ。あの子、いつ帰ってくるの』

「あの子?」

『ウィラちゃん。お使いに行ったでしょ。塩、買いに』

マーロウは、ウィラを見た。

水道橋の下の道で、ウィラがニコとミアと歩いていた。今朝からずっと、三人でいる。

塩を買いに行ってなど、いなかった。

「…母さん。ウィラはそこにいる」

リーネは、下を見た。

見て、一度、瞬きをした。

『…あ。ほんとだ』

笑おうとして、口の端が、うまく上がらなかった。

『変ね。さっき、確かに頼んだ気がしたのに』

マーロウは、母親の横顔を見ていた。

本部の声を、思い出した。

十四日です。誤差は、二日です。

誤差は、悪いほうにも転ぶ。


その夜、東門に、灯りの列が着いた。

予定より二日早かった。

黒い馬車が三台。前後に、帝国の兵が二十。

先頭の馬車から降りてきた男は、灰色の外套を着ていた。人間だった。痩せていて、背が高く、色の薄い髪を後ろへきっちり撫でつけている。目は薄い青で、人の顔を見ずに、手元の紙を見たまま喋る癖があった。手に、皮の鞄を提げていた。

マーロウは、その男を見て、胸の奥が重くなった。嫌いだ、とは思わなかった。嫌う前に、面倒だ、と思った。役人の顔だった。

兵が、東門の脇の壁に、紙を貼った。

その紙には、こう書いてあった。

帝国監察官、セドリック・ヴォルク。海壁および街の灯りについて、明朝より調べを行う。街の者は、粒を一人残らず、市場へ持って出ること。

ニムが、貼り紙の前で、立ち尽くしていた。


朝、市場に人が並んだ。

売り買いのための列ではなかった。

帝国の兵が長机を三つ出して、その前に街の人間を並ばせていた。順番に、持っている粒を机に出させている。

セドリック・ヴォルクは、机の後ろに立っていた。

人の顔を見なかった。出された粒を見て、手元の紙に何か書いて、次、と言う。ただそれだけを、朝から昼まで続けた。

「…何を調べてる」

マーロウが訊いた。

セドリックは、紙から目を上げなかった。

『数です』

「数」

『この街に、印のついた粒がいくつあるか。帳面の上では、四万二千百十です。三百年ぶんの記録がありますので』

セドリックは、次の人が出した粒を見て、また書いた。

『今朝から数えて、千二百十一です。今日一日で、たぶん四千に届きません』


ニムが、列の後ろで唸った。

「四万二千だと? そんなにあるか、この街に」

『帳面にはあります』とセドリックが言った。『ですから、確かめに来ました』

「帳面が間違っとるんだろが」

『帳面は間違いません』

セドリックは、初めて顔を上げた。

薄い青の目が、ニムを見た。

『間違うのは、人です』

ニムの喉が、鳴った。

セドリックは、また紙に目を落とした。

『四万二千のうち、実際にあるのが一万だとしましょう。三万二千は、どこへ行ったのか。消えたのか。隠されたのか。売られて国の外へ出たのか。私は、それを書いて都へ持ち帰ります。判断は、都がします』


昼過ぎ、セドリックは海壁へ行った。

石の剥がれた場所の前に立って、露出した金属を、長いこと見ていた。

後ろに、変換器の技師が二人いた。二人とも、白い手袋をしていた。

『この壁は、石と鉄でできています』

セドリックが言った。

『帝国の記録に、そう書いてあります』

「見りゃ分かるだろ。鉄じゃない」

『では、記録が間違っていることになります』

セドリックは、手袋の技師に顎で合図した。

技師が、金属に鑿を当てて、槌で叩いた。

甲高い音がした。

鑿の先が、欠けた。

金属には、傷一つ付かなかった。

技師が、青い顔でセドリックを見た。

セドリックは、紙に何か書いた。

『鉄ではない、と書いておきます』


ドラグが、壁の上から降りてきた。

セドリックの前に立った。

オークの体は、監察官より頭一つ半、大きかった。

「壁の隊長のドラグ・モーテンセンだ」

『存じています。都への移送が保留になっている方ですね』

「その書類も、あんたが持ってきたのか」

『写しを持っています。罪状の記載がない、と書かれていました。正しい判断です』

セドリックは、紙をめくった。

『私は、正しく書かれた紙が好きです。壁の隊長。あなたの書記が書いた記録も読みました。三十人の署名つきの、あの記録です』

ドラグは、黙っていた。

『よく書けていました。あれのおかげで、私がここに来ることになりましたが』


夕方、セドリックは、ニムの店の前に立った。

店の奥まで見て、それから、秤の上の粒を一つ、指でつまんだ。

『この粒は、いつのものですか』

「二十年は回っとるな」

『明るさは』

「暗い」

『新しい粒は、明るい』

「そうだ」

『なぜですか』

ニムが、口を開けて、閉じた。

答えを知っていた。

数日前に、リーネから聞いた。結び目の話も、ゆるむ話も、全部聞いた。

だが、答えれば、その先を訊かれる。誰から聞いたのか。どうやって確かめたのか。

ニムは、七本の指で秤の縁を握った。

「…知らん。百六十年やっとるが、理由は誰も知らん」

セドリックは、しばらくニムを見ていた。

人の顔を見ない男が、そのときだけ、じっとニムの顔を見ていた。

『そうですか』

それだけ言って、紙に何か書いた。

第九章 了