海壁

第七章

夜の水汲み

挿絵:夜の水汲み

『理由、聞いていい?』

「三つある」

『三つもあるんだ』

「一つ目。おれは、この海から一生出られない。本部と決めた。ここで毎朝、手を切って、粒を作る。死ぬまでだ」

『知ってる。それでもいいって言ったよ』

「二つ目。母さんは、十四日で消える」

ミラベルが、顔を上げた。

『…え』

「本部に訊いた。力を押さえながら生きて、あと十四日だ。誤差は二日」

ミラベルの口が、開いたまま止まった。

「今、おれの中に入る場所がない。あんたを入れる場所が」

『…そんなの』

「三つ目」

マーロウは、自分の左の手のひらを開いた。

毎朝切る場所だ。塞がって、また切って、塞がって。もう傷跡が重なって、どこを切ったのか分からなくなっている。

「この手は、毎朝血が出る。血が出てるあいだ、おれは誰にも触れない。むき出しの傷にも、水にも。朝から昼まで、おれは誰にも触っちゃいけない男だ」

『…夜は触れるじゃん』

「夜も、いつ切るか分からん。鐘鳴きが出たら切る。空船が来たら切る。あんたが怪我したら、真っ先に切る」

マーロウは、手を閉じた。

「そういう男と、どうやって暮らすんだ」


ミラベルは、しばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

いつもの、あっはは、が付いていない声だった。

『暮らせるよ』

「無理だ」

『無理じゃない。あたし、二百十年、誰にも触られてないもん。触られなくても、隣にいられるよ』

「おれが無理なんだよ」

声が、思ったより大きく出た。

マーロウは、一度、目を閉じた。

「…母さんの数字を聞いた夜だ。十四日だと。それを聞いてから、ずっと考えてる。おれは、数えられるものを、もう増やしたくない」

『数えられるもの?』

「あと何日、って数える相手だ」

ミラベルの膝の上で、豆の椀が、少し傾いた。

「あんたは、本部の粒で動いてる。本部が粒をくれなくなったら、あんたは止まる。おれはその日を、たぶん毎日数える」

「だから、やめとけ」


ミラベルは、椀を二つとも、壁の縁に置いた。

それから、立ち上がった。

『分かった』

いい声だった。明るい声だった。

『分かったよ、坊や』

振り返らずに、梯子のほうへ歩いていった。

途中で一度だけ止まって、背中で言った。

『あのさ。一個だけ言わせて』

「言え」

『好き。大好き。ずっと好き』

壁の上の風が、ミラベルの髪を横へ流した。

『はい、言った。言ったからね。返事はいらない。いらないけど、聞いたからね』

「…聞いた」

『じゃあいい』

ミラベルは、梯子の上の段に足をかけた。

『でもさ。あたしが勝手に好きでいるのは、坊やの許可、要らないからね』

それだけ言って、降りていった。


翌朝、桶の列の先頭に、ミラベルがいた。

いつもより早く来ていた。

マーロウが波打ち際に立つと、無言で桶を差し出した。

マーロウは受け取った。指は、触れなかった。

手を入れる。粒が落ちる。次の桶。

ミラベルは、四つ抱えて走って、また戻ってきた。

昨日と同じ速さだった。昨日より、少しだけ速かった。

ウィラが、壁の上からそれを見ていた。

見ていて、縄を握る手に力が入っていた。

『…マーロウのばか』

小さな声だった。

下までは、届かなかった。


深い水を汲みに行くのは、夜と決めた。

日に当たれば、暗がりの生き物は一日で死ぬ。汲むなら、日の落ちたあとだ。

壁の上から、縄梯子を海側へ下ろした。

降りたのは三人。マーロウと、ベルと、ニコ。

ウィラは壁の上で、縄の端を握っていた。ミラベルは、縄のもう一方を持っていた。二人とも、何も言わなかった。

禁止区の濡れた地面を歩いて、波打ち際に出た。

ニコが、腰まで海に入った。

『…お願いがあるんだけど』

星が、ニコの手のひらの下に集まった。

『いちばん下の水が、欲しいの。底の、いちばん深いとこの水』

星が、ゆっくり瞬いた。

『日に当たってない水。持ってこれる?』


沖で、海が盛り上がった。

細い柱だった。人の胴ほどの太さで、三メートルほど立ち上がって、こちらへ歩いてきた。

柱の中の星は、ほかの星より、ずっと明るかった。

『…来た』

ニコが、両手を広げた。

柱は、ニコの前で止まった。

ベルが、硝子の筒を七本、波打ち際に並べた。栓は抜いてある。

柱が、傾いた。

筒の口に、水が落ちた。細く、正確に。一本ずつ。

七本目が満ちたところで、柱は崩れて、海に戻った。

ベルが、栓を打った。一本ずつ、黒い布で巻いた。

『…すごい』

ニコが、震える声で言った。

『いつも、ぼくが頼むだけだったのに。今日、初めて、向こうから、こうやって、って教えてくれた』

「教えてくれた?」

『うん。筒の口に落とすやり方。ぼく、知らなかったもん』


その夜、シビルの蔵で試した。

灯りを消して、深い水を一滴、マーロウの作った粒に落とす。

模様が浮かんだ。

今度は、さっきより、はっきり浮かんだ。

『…海から汲んだ水のほうが、筒の水より強く出ます』とシビルが言った。

「なんでだ」

『分かりません。海のいちばん下は、三百年、誰も触っていない水です。それだけのことかもしれません。あの海から来たものが運んできた深い水が、日の届かない底に溜まっているのかもしれません』

ロズリンが、筆を走らせた。

『七本。今夜の分です。毎晩七本なら、十日で七十本』

「七十本あれば」

『市場の端に、台を一つ置けます』

ロズリンは、眼鏡を押し上げた。

『粒を持ってきた人に、その場で一滴垂らして、暗い箱に入れて、覗いてもらう。それだけで、自分の粒がどちらか分かります』

ドラグが、腕を組んで聞いていた。

『台には、誰が立つ』

「私です」とロズリンが答えた。「記録係ですから」

ドラグは、少し黙った。

『…一人では立たせん』

第七章 了