海壁

第十四章

灯りを消す

挿絵:灯りを消す

ミラベルが来たのは、夜半を過ぎてからだった。

納屋の戸口に立って、中を覗いた。

マーロウは、藁の上に座って、壁の崩れた隙間から星の海を見ていた。

『…入っていい?』

「だめだ」

『じゃあ、ここにいる』

ミラベルは、戸口の柱にもたれて、座った。

ウィラと同じ場所だった。

しばらく、二人とも黙っていた。

海の音が、遠くでしていた。

『あのさ』

「なんだ」

『あたし、泣いてないからね』

「…そうか」

『泣いてないけど、さっき、ベルに訊かれた。一番はなぜ水が出るんですか、って』

ミラベルは、膝を抱えた。

『あの子、あたしの顔で生まれてきたのに、泣き方だけは似なかったんだよね』


「ミラベル」

『うん』

「この前、やめとけって言ったよな」

『言われた。覚えてる。三つ理由があるって』

「一つ目は、おれがこの海から出られないことだ」

『うん』

「二つ目は、母さんが十四日で消えることだった」

ミラベルが、顔を上げた。

「…二つ目が、なくなった」

声が、自分の声に聞こえなかった。

「今日、なくなった。数えるものが、一つ減った」

ミラベルは、何も言わなかった。

言わずに、戸口の外から、マーロウを見ていた。


「三つ目が残ってる」

マーロウは、自分の左手を開いた。

毎朝切る場所だ。今朝も切った。傷は塞がっている。明日また切る。明後日も切る。死ぬまで切る。

「この手は、血が出てるあいだ、誰にも触れない」

『知ってる』

「一生だ」

『知ってる』

「あんたは、粒で動いてる。粒が切れたら止まる」

『それも知ってる』

ミラベルは、戸口の柱から背中を離した。

『坊や。あたし、一個だけ言っていい?』

「言え」

『あたしたち、二人とも、いつ終わるか分かんないの』

ミラベルは、曲がった二本の指を、自分の胸に当てた。

『でも、それ、この街の人みんな同じでしょ。ガスって人も、ニムって人も、嬢ちゃんも。明日死ぬかもしれないのは、みんな一緒。あたしたちだけ、数えられるだけ』

マーロウは、その言葉を、しばらく噛んでいた。


「…入れ」

ミラベルの肩が、跳ねた。

『え』

「入れって言った」

『…いいの?』

「聞こえなかったのか」

ミラベルは、立ち上がった。

立ち上がって、三歩で、藁の上まで来た。

それから、止まった。

止まって、動けなくなった。二百十年生きた本部の刃が、三歩歩いたところで、足の置き場所を見失っていた。

マーロウが、手を伸ばした。

右手だ。切っていないほうの手。

ミラベルの左手を取った。

金属の手だ。冷たい。指が二本、あり得ない方向に曲がっている。

その曲がった二本を、自分の指で包んだ。

『…また、それ』

ミラベルの声が、掠れた。

『それ、ずるいって、前も言った』

「言われた」

『今日も言う。ずるいよ』

「知ってる」

マーロウは、その手を、引いた。


ミラベルの体が、藁の上に落ちた。

顔が、すぐ近くにあった。

茶色い目と、金属の目。茶色いほうが、濡れていた。

『…坊や』

「なんだ」

『あたし、こういうの、初めてなんだけど』

「二百十年で初めてか」

『二百十年で初めて』

ミラベルは、泣きそうな顔で笑った。

『下手でも、笑わないでね』

「笑わない」

マーロウは、その顔に、自分の顔を近づけた。

ミラベルが、目を閉じた。

二百十年、誰にも触られなかった女が、初めて、触れられるのを待っていた。


納屋の灯りは、粒を一つ入れた古い灯りだった。

ニムの店から、二年前に銅貨三枚で買ったものだ。

その灯りに、マーロウは手を伸ばした。

蓋を閉じた。

納屋の中が、暗くなった。

壁の崩れた隙間から、星の海の光だけが、細く入っていた。

外では、波が寄せて、引いていた。

寄せて、引いて。

夜が明けるまで、ずっとそうしていた。


朝、桶の列は、いつもどおり並んだ。

いつもどおりでないところが、一つだけあった。

マーロウが波打ち際に立つと、ミラベルが桶を差し出す。ここまでは同じだ。

受け取るときに、指が触れた。

触れて、離れなかった。

桶を挟んだまま、二人が三つ数えるあいだ止まっていた。

列の後ろで、ブリンが噴き出した。

「おいおいおい! どうしたんだ今日は! 前に進まんぞ!」

『うるさいなぁ!』

ミラベルが真っ赤な顔で怒鳴り返した。

「あっはっは! 顔! 顔が赤いぞ刃!」

『赤くない!』

赤かった。

その日の昼、ミラベルは市場の真ん中で立ち止まって、いきなり大声を出した。

『好きーっ!』

干し肉屋の客が、全員振り返った。

「おい」

『だって言いたくなったんだもん。言わないと胸が苦しいの。これ、どうにかしてよ』

「どうにもならん」

『じゃあ毎日言う』

「…好きにしろ」

『するよ。好きにする。好きだから好きにする』

ニムが秤の向こうで唸った。

「…若いのはいいのう。二百十歳が若いかどうかは、わしにはもう分からんが」


壁の上のウィラは、それを見ていた。

縄を握ったまま、口を開けていた。

ガスが横から覗き込んだ。

『…おい嬢ちゃん。あれ、なんかあったな』

「…なんかあったね」

『あったなぁ』

ガスが、三本の指で顎を撫でた。

『よし。おれは知らんふりをする。大人だからな』

「おじさん、顔がにやけてる」

『にやけてねえよぉ』

第十四章 了