第二十七章
蓋

その夜、マーロウは壁に上がった。
ミラベルが、隣に座った。指はまだ曲がったままだが、朝より少しだけ、角度がゆるんでいた。
マーロウは、金属に手のひらを当てた。
「訊きたいことが二つある」
『どうぞ』
「一つ目。ミラベルの指が戻ってきた。理由は分かるか」
『分かります。餌が変わったからです。私も同じ計算をしました』
「いつからだ」
『二か月前からです』
ミラベルが、横で口を開けた。
「…なんで言わなかったの」
『訊かれていませんでしたので』
ミラベルが、壁を蹴った。
足が痛かったらしく、そのあと黙った。
「二つ目だ」
マーロウは、手のひらに力を入れた。
「共和国が、都の東で穴を掘ってる。どこまで来てる」
『千九百五十メートルです』
「海までは」
『二千百メートルです』
「あと百五十か」
『はい。ただし』
金属が、少し間を置いた。
『十七日前から、深さが変わっていません』
「止まったのか」
『掘っています。音は続いています。ですが、深さが進んでいません』
マーロウの背中が、冷えた。
「…何かに当たったのか」
『当たっています』
『四つ目の海の上に、蓋があります』
風が、壁の上を通った。
「蓋」
『厚さ、およそ四十メートル。錆びない金属です』
「あんたの金属か」
『同じ金属です。ですが、私が作った蓋ではありません』
マーロウの手のひらの下で、金属が、低く震えた。
『私は三百四十年前に作られました。この壁も、坑の梯子も、私が作らせたものです。記録があります』
『四つ目の蓋には、記録がありません』
ミラベルが、立ち上がっていた。
「…それ、どういう意味」
『私より先に、同じ金属を使った者がいる、という意味です』
金属の声には、抑揚がなかった。
それでも、マーロウには、それがこの計算機の出せるいちばん近い驚きの形に聞こえた。
『私は、自分が最初だと記録していました。その記録が、間違っている可能性があります』
翌朝、ニムの店に集まった。
ロズリンが、地図に印を三つ書いた。
北の氷。東の砂。南の都。
『四つ目の蓋が、本部より古いとなると、話が一つ増えます』
「増えるな」
『この壁を建てた者が、本部だけではないかもしれない、ということです』
ロズリンは、印を鉛筆の先で軽く叩いた。
『本部は三百四十年前。四つ目の蓋は、それより前。どれだけ前かは分かりません』
ガスが、椅子の背にもたれた。
『それ、考えても分からん話だろ。今どうすんだ、って話をしようぜ』
「ガスの言うとおりだ」とマーロウが言った。
「知りたいことは三つだ。一つ、共和国はあと百五十メートルで海に届く。二つ、蓋があって届かない。三つ、蓋を壊す方法を、共和国が探しはじめる」
『三つ目は、まだ起きていません』とベルが言った。
「起きる」
マーロウは、机の上の地図を見た。
「おれが共和国なら、探す。そして、この世界で錆びない金属を切れるものは、一つしかない」
全員が、同じものを思い浮かべた。
壁に立てかけてある、名前のない剣だった。
ガルドが、左手で、その剣の柄を叩いた。
『これは、おれが持ってきた。持ち主は帝国だ。帝国が返せと言ってきたら、おれは返す』
「共和国が来たら」
『渡さん』
ガルドは、剣を見た。
『四十年、これを守る側にいた。守る理由は教わらなかった。今なら分かる。こいつは、蓋を開ける鍵だ』
ウィラが、その横で身を乗り出した。
『ねえ。だったら、南に持っていったら危ないよね。ドラグさんたち、都にいるんだよ』
「危ない」
『手紙、届くまで二十日以上かかるよ』
「かかる」
ウィラは、マーロウの顔を見た。
『だから、行くって言ってるの』
マーロウは、答えなかった。
答えられなかった。
店の外で、ミラベルが戸口の柱にもたれて、それを聞いていた。
その夜、壁の上で、ミラベルが先に口を開いた。
『行かせなよ、あの子』
「だめだ」
『じゃあ、あたしが行く』
マーロウは、ミラベルを見た。
『あたしなら、走れば十日。剣を運ぶなら、あたしがいちばん速い』
「あんたは、ここの列にいる」
『列はベルがいる。二日三日は持つって、前に言ってたじゃん』
「二日三日だ。二十日じゃない」
ミラベルは、膝を抱えた。
『分かってる。分かってて言ってる』
壁の下で、海が鳴っていた。
『あたし、坊やが行けないのを知ってる。坊やが行けないから、誰かが行くしかないのも知ってる。それで、行けるのがあたしとウィラしかいないのも知ってる』
「…知ってるなら、言うな」
『言うよ。言わないと、坊やが一人で全部決めるもん』
ミラベルは、マーロウの手を取った。
曲がった指が、前より少しだけ、まっすぐになっていた。
『決めるのは、坊やでいい。でも、一人で決めるのはなし』
マーロウは、その手を握り返した。
「…春までに決める」
『春までね』
『春が来たら、あたし、もう一回言うからね』
海の星が、ゆっくり瞬いていた。
その夜、波は、指の関節ひとつ分だけ低かった。
第二十七章 了