第十二章
南の岩

消えたのではなかった。
速すぎて、見えなかった。
次に見えたときには、獅子の背中に立っていた。
素手が、翼の付け根に触れていた。
灰白色の羽根が、根元から黒くなった。
乾いて、縮んで、ばらばらと崩れた。落ちた羽根が、石畳の上で、粒になって転がった。
オルヴァンが、初めて声を上げた。
獅子は、後ろ脚で立ち上がって、身をよじった。リーネが振り落とされて、宙で体を返して、石畳に降りた。
降りた足が、一歩ぶん、滑った。
マーロウは、それを見ていた。
母親が足を滑らせるのを、初めて見た。
『リーネさん!』
ミアの声だった。
リーネが、振り返った。
振り返って、きょとんとした顔をした。
『…だれ?』
ミアの顔が、凍った。
リーネは、自分の手を見て、それから市場を見た。
『あたし、今、何してた?』
「母さん!」
マーロウが叫んだ。
リーネの目が、こちらを向いた。
『…マーロウ』
名前は、出た。
『そう。戦ってた。思い出した』
リーネは、自分の頬を、一度叩いた。
『あと二回。二回で終わらせる』
一回目。
リーネは、融合兵の群れの中を走った。触れた兵が、殻の継ぎ目から崩れた。十二人が、六人になった。三人になった。
走り抜けたあと、リーネは足を止めて、空を見た。
『…空船って、なんだっけ』
誰も答えなかった。
答えを待たずに、リーネは、また走った。
二回目。
獅子の喉に、手のひらが届いた。
オルヴァンの体が、硬直した。喉の毛が、黒くなりかけた。
そこで、リーネの手が、止まった。
止めたのだ。
最後の力で、押さえた。
『…帰りなさい』
リーネの声は、静かだった。
『翼はもう無い。あなたは、それを取り返しに来た側でしょう。取り返された側の気持ち、分かったでしょう』
オルヴァンは、動かなかった。
リーネが、手を離した。
獅子は、後ずさった。
翼のない背中で、光の柱へ向かって走った。
柱が、上がっていった。
空船は、南へ去った。
市場が、静かになった。
リーネが、石畳の上に座り込んだ。
マーロウが走って、手前で止まった。
触れない。触れられない。
リーネが、顔を上げた。
にこりと笑った。
『あの。すみません』
その声は、初めて会う人に向ける声だった。
『ここ、どこですか。あたし、誰かを探してた気がするんですけど』
マーロウの膝が、折れた。
石畳に、両手をついた。
リーネは、そんな息子を、不思議そうに見ていた。
それから、ふと、何かを思い出した顔をした。
『あ。そうだ』
リーネは、手袋のない手で、自分の胸を押さえた。
『岩。南の岩。連れていって、って、誰かに頼んだの』
禁止区のいちばん南。壁と海が交わるあたりの、平らな岩。
ベルが、いつも座っている場所だった。
その岩まで、リーネは自分で歩いた。
誰も、手を貸せなかった。手袋は、もう革が保たなかった。
マーロウが前を歩いて、リーネが後ろをついてきた。ウィラとニコとミアが、そのまた後ろを歩いた。ミラベルとベルが、いちばん後ろにいた。
歩きながら、リーネは何度も同じことを訊いた。
『ねえ、あなた、どちらさま』
「マーロウだ」
『マーロウ。いい名前ね』
「あんたがつけた」
『あら。そうなの』
リーネは、嬉しそうに笑った。
笑うたびに、マーロウの胸のどこかが、削れた。
岩に着いた。
リーネは、岩の上に座った。
海が、目の前にあった。星の海だ。夜のあいだ、ずっと光っている海。
『きれい』
「ああ」
『あたし、ここ、来たことある気がする』
「来たかもしれないな」
『そう。じゃあ、きっと楽しかったのね』
リーネは、海を見ていた。
マーロウは、その横に、一メートル離れて座った。
それ以上は、近づけなかった。
ウィラが、岩の下から声をかけた。
「リーネさん。ごはん、作ってきた」
リーネが、振り返った。
『あら。ありがとう。あなた、お名前は』
ウィラの顔が、くしゃっとなった。
それでも、声は崩さなかった。
「ウィラ。ウィラ・ドーセットです」
『ウィラちゃん。いい名前ね』
「…そう言われたの、二回目です」
ウィラは、椀を岩の上に置いた。豆と芋だ。ミアに手伝ってもらって作った。塩は、少なめにした。
リーネは、それを見た。
匙を取った。
一口食べた。
『おいしい』
ウィラが、両手で口を押さえた。
『これ、あたしの好きな味だ。誰が作ったの』
「あたしです」
『そう。ありがとう。ごちそうさま』
リーネは、二口目を食べられなかった。
匙が、手から落ちた。
落ちた匙が、岩の上で、黒くなって、崩れた。
夜が更けた。
子どもたちは、ミラベルが連れて帰った。ウィラは最後まで動かなかったが、リーネが「風邪ひくよ」と笑ったので、それで帰った。
岩の上に、マーロウと、リーネと、少し離れたところにベルが残った。
ベルは、何も言わずに座っていた。
海の星が、ゆっくり瞬いていた。
リーネは、ずっと海を見ていた。
ときどき、思い出したように喋った。
『あのね、あたし、子どもがいるの』
「…そうか」
『男の子。今、二十九歳。三十になる前に、会いに行こうと思ってて』
マーロウは、海を見た。
まばたきをした。
「…どんな子だ」
『口が悪いの』
リーネが、笑った。
『すぐ、いいって言うの。大丈夫か、って訊いても、いい、って。子どものときから。素直じゃないんだから』
「…そうか」
『でも、あたしが水を汲んで帰ると、必ず戸口で待ってるの。眠いのに、待ってるの。柄杓を渡すまで、寝ないの』
マーロウは、子どものころの家の戸口を思い出した。
覚えていない。
覚えていないのに、その光景が、はっきり浮かんだ。
第十二章 了