海壁

第十一章

いちばん普通の日

挿絵:いちばん普通の日

十一日目の朝、リーネは、机を壊した。

ニムの店の奥だ。豆を選り分けようとして、机に手を置いた。

それだけだった。

手を置いた場所から、木が黒くなった。乾いて、縮んで、崩れた。机の脚が折れて、豆が床にばらまかれた。

黒い粒が、四つ転がった。

リーネは、自分の手を見ていた。

『…あ』

それだけ言った。

ウィラが、豆を拾おうとして、途中で止まった。

リーネが、その手を、声で止めていた。

『触らないで。今、触らないで』


その日から、リーネは手袋をした。

ヴェスタが革で作った。二重の革で、指先まで覆う分厚いものだった。

『これで、しばらくは持つ』とヴェスタが言った。

「しばらく、ってのは」

『革が保つあいだだ』

ヴェスタは、それ以上は言わなかった。

リーネは、手袋をはめた手を開いて、閉じて、笑った。

『いいね、これ。冬の手袋みたい。冬って、知ってる? 昔、北のほうにはあったんだって』

誰も、答えられなかった。


その日は、何も起きなかった。

朝、桶の列を回した。粒は千八百できた。海の水位は変わらなかった。灯りも消えなかった。

昼、ロズリンの台に、四十人ほどが並んだ。空の粒が十二、中身のある粒が二十八。ロズリンは、両方とも帳面に書いた。

セドリックは、市場の隅で紙を書いていた。

夕方、ブリンが豆を炊いた。塩を入れすぎた。

ガスが文句を言った。ブリンが右手でガスの背中を叩いて、ガスが咳き込んだ。ミアが笑った。ニコが豆を三杯食べた。ボロがミラベルの長靴をくわえて逃げて、ミラベルが片足で追いかけた。ベルがそれを見て、首を傾げていた。

リーネは、手袋をはめた手で椀を持って、それを見ていた。

ずっと見ていた。

『いい街だね』

「そうか」

『うん。いい街』

リーネは、笑った。

『あたしが選んだ街だもん。当たり前か』


夜、水道橋の上に登った。

二人で。

リーネが、手袋の指で、橋の縁をなぞった。

『マーロウ。一つ、数えてくれない』

「何を」

『あたしが忘れたもの』

マーロウは、答えなかった。

『鍋。お玉。ウィラちゃんが塩を買いに行ったって話。昨日は、ニムさんの名前が出てこなかった。今朝は、あなたが何歳だったか分からなくなった』

リーネは、空を見た。

『まだ、あなたの名前は出る。マーロウ。マーロウ・ケイン』

「…母さん」

『名前がなくなったら、教えてね。すぐに言って。そしたら、あたし、岩のところへ行く』

マーロウは、喉の奥が痛かった。

痛みを感じない体のはずだった。

「…七日ある。本部は十四日だと言った」

『本部の数字は、あたしが力を使わなかったらの話でしょ』

「使うな」

『使わないよ。誰も襲ってこなければね』


その夜、ボロが吠えた。

南に向かってだった。

マーロウは、納屋から飛び出した。

市場の通りに、人が出てきていた。みんな、南の空を見ていた。

黒い影が一つ。

空船だった。一隻。

三百メートルの腹が、月を隠しながら、ゆっくり街の上へ滑ってきた。

腹の下の白い光が、三つ、点いていた。

七隻のうちの一隻ではなかった。もっと細い。もっと速い。

ミラベルが、壁の上から叫んだ。

『坊や! あれ、都の船じゃない! 前の三隻でも七隻でもない!』

ヨルンとユランなら、旗で見分けられたはずだ。

双子は、南へ行っていた。

空船の腹から、光の柱が一本、市場の真ん中に落ちた。

柱の中を、降りてくるものがあった。

人ではなかった。

四つ足で、背が高く、背中に、翼があった。

灰白色の翼だった。


光の柱の中に降りてきたのは、獅子だった。

下半身は灰白色の獣。上半身は男。短い黒髪。琥珀色の、白目のない目。

背中に、翼があった。

灰白色の翼だ。左右で八メートル。

シビルが、乾いたところから、ゆっくり立ち上がった。

瞬きの遅い金色の目が、その翼を見ていた。

『…あれは』

声が、初めて、崩れかけていた。

『あれは、私の妹の翼です』


獅子は、市場の石畳に降り立った。

石が、割れた。

『共和国将軍、オルヴァン・ケイド』

よく通る声だった。

『前任者は、任を解かれた。私が引き継いだ』

マーロウは、市場の入口に立っていた。

後ろに、街の人間がいた。

「用件を言え」

『神の血だ。二人目と、それから、新しいほうを』

オルヴァンの琥珀色の目が、マーロウの後ろを見た。

そこに、リーネがいた。手袋をはめた手を、体の前で組んでいた。

『空船を七隻、素手で追い返した女がいると聞いた。都は、それを欲しがっている』


その先は、速かった。

光の柱から、融合兵が十二人、降りてきた。壁の兵が前に出た。グロムが指揮した。ドラグが素手で一人を投げた。ブリンが右の拳で一人を殴り飛ばした。ミラベルとベルが、刃で鎖を断つように、兵のあいだを駆けた。

だが、獅子は別格だった。

翼を一度打っただけで、壁の兵が四人、宙に浮いて、石畳に叩きつけられた。

ミラベルが跳んだ。

刃が、獅子の前脚を狙った。

獅子は、避けなかった。

前脚で、刃を受けた。

金属と金属が当たる音がした。

獅子の脚にも、錆びない金属が入っていた。

ミラベルが弾かれて、干し肉屋の屋根に突っ込んだ。

『…あの脚、本部のだ!』

屋根の上から、ミラベルが叫んだ。

『共和国、本部から買ったんだ! 腕とか脚とか、そういうの!』


リーネが、歩きだした。

ゆっくりと。

マーロウが、腕をつかもうとした。

つかめなかった。手袋の腕が、するりと抜けた。

「母さん!」

『大丈夫。ちょっとだけ』

リーネは、振り返らずに言った。

『ちょっとだけだから』

獅子の前に立った。

オルヴァンが、見下ろした。

『おまえか。素手で鎖を引き抜いたという女は』

リーネは、答えなかった。

答えずに、右手の手袋を、口で咥えて引き抜いた。

獅子の琥珀色の目が、細くなった。

次の瞬間、リーネの姿が、消えた。

第十一章 了