第八章
父親の欄

朝は、桶の列が続いた。
ミラベルは、毎朝いちばんに来た。
桶を差し出す。マーロウが受け取る。指は触れない。
列が終わると、ミラベルは帯の小袋から粒を一つ出して、口に入れる。噛む。それだけで、彼女の一日が終わる。
七十四あった粒は、六十三に減っていた。
ウィラが、それを数えていた。
四日目の朝、ウィラが桶の列の横に立ちはだかった。
『マーロウ』
「なんだ」
『ミラベルに、なんか言うことあるでしょ』
「…仕事中だ」
『毎日仕事中じゃん。一生仕事中じゃん』
ウィラは、両手を腰に当てた。
『あたし、ずっと見てた。あの人、毎朝いちばんに来て、いちばん最後まで運んでる。マーロウが振り返らないのも知ってて、それでも来てる』
「知ってる」
『知ってるなら、なんで』
マーロウは、桶に手を入れた。粒が落ちた。
次の桶を待った。
ウィラは、その横顔を見て、唇を噛んだ。
『…大人って、ばかだ』
それだけ言って、壁の上へ戻っていった。
その夜、ニムの店で、リーネが豆を煮ていた。
マーロウが入っていくと、顔を上げて、笑った。
『おかえり。あの…ええと』
言葉が、そこで止まった。
リーネは、鍋を見た。それから、天井を見た。
『…なんだっけ。これ。豆を入れる、この、丸いやつ』
「鍋だ」
『そう。鍋』
リーネは、もう一度笑った。
笑って、鍋に向き直った。
『変なの。ついさっきまで、分かってたのに』
ウィラが、店の隅で、豆を選り分けていた。
何も言わずに、リーネの横に来て、鍋のふちを指で示した。
「これ、鍋。こっちがお玉。これが塩」
『ありがとう。ウィラちゃん』
「明日も教えるからね」
『うん』
リーネは、ウィラの頭を撫でた。
撫でる前に、指が一度、止まった。
店を出たところで、サイラスが待っていた。
硝子の板を、両手で持っていた。
『ケインさん。本部から報せでございます』
板の白い字は、短かった。
帝国の都より、監察官が発つ。目的は、海壁の灯りの件および壁の材質の照会。到着、五日後。
「…五日後」
『五日後でございます』
サイラスは、眼鏡を押し上げた。
『本部は、こうも申しております。監察官の一行に、変換器の技師が二名、同行している、と』
マーロウは、市場のほうを見た。
灯りが、点いていた。粒で動く灯りだ。
そのうちのいくつが、もう空なのか、この街の誰も知らない。
五日のうち、三日が過ぎた。
リーネが街に来てから、九日目だった。
本部の言った十四日のうち、九日が残っていた。
その朝、リーネは、桶の列の横に座っていた。
海に近づきすぎないように、乾いたところの端に。
ウィラとミアが、両脇に座っていた。ニコが、その前で膝を抱えていた。
子どもが三人、女が一人。まるで姉と弟妹のような四人だった。
「ねえ、リーネさん」とミアが言った。
リーネは、返事をしなかった。
ミアが、もう一度言った。
「リーネさん」
『…あ。あたしか』
リーネは、慌てて笑った。
『ごめんね。名前、一拍遅れるの、最近』
ウィラが、膝の上の手を握った。
それから、訊いた。
「…マーロウのお父さんって、どんな人だったの」
リーネは、海を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
『いないの』
「え」
『あの子には、父親がいない。本当に、いないの』
リーネは、両手を自分の腹に当てた。
『本部の部屋で、ここに、材料を入れられた。桶に入れる代わりに、あたしの体に。あの子は、そこから育った』
ミアが、口を押さえた。
ニコが、顔を上げた。
「…痛かった?」
『痛くなかった。眠らされてたから』
リーネは、少しだけ笑った。
『目が覚めたら、お腹が少し膨らんでた。それだけ。説明も、謝罪も、何もなかった』
「…なんで逃げたの」
『七か月目に、本部の声が言ったの。産んだあと、子どもは回収します、って』
リーネは、海の星を見ていた。
『あたし、その日のうちに歩いて出た。止める人はいなかった。本部は、追ってこなかった。なんでかは、今でも分からない』
「歩いて? お腹に、赤ちゃんいるのに?」
『三十一日。荒れ地を』
リーネは、なんでもないことのように言った。
『そのあと、井戸の水しかない街を探した。海から遠くて、粒の話をしない街がよかったけど、そんな街はどこにもなかった。だから、海のそばの、いちばん外れの家にした。壁があるから、海は見えないでしょ』
ウィラは、何も言えなかった。
三人とも、何も言えなかった。
昼、マーロウは母親と二人で、崩れた水道橋の上に登った。
街でいちばん高い場所だ。
夕方になると、海壁の上の線だけが先に燃える。それを見るために登る人間が、この街には何人かいる。
『いい場所だね』
「ウィラが好きな場所だ」
『あの子、いい子だね』
「ああ」
『あの子のこと、娘だと思ってる?』
マーロウは、答えなかった。
リーネは、笑った。
『答えなくていい。顔でわかる』
『マーロウ。一つ、頼みがあるの』
「言え」
リーネは、膝の上で両手を握った。
『あたしがね、押さえられなくなったら、人のいないところへ連れていって』
マーロウの喉が、動いた。
『力を押さえるのに、力が要るって言ったでしょ。その力がなくなったら、触れるものを選べなくなる。手すりも、壁も、人も』
「…母さん」
『そうなる前に、連れていって。禁止区の、いちばん南の岩のところがいい。ベルがいつも座ってるとこ。あそこなら、誰も通らない』
「まだ九日ある」
『九日しかない』
リーネは、マーロウの顔を見た。
『あたし、六年眠ってた。眠ってるあいだ、何も考えなかった。起きて、あなたを見て、九日で、ここまで来た』
リーネの手が、マーロウの手に近づいて、止まった。
触れなかった。
『九日で、二十九年ぶんを見た。足りないけど、足りないなんて言ったら、罰が当たる』
第八章 了